韓国の反日は差別だ!

韓国への反論をするための方法を提供

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在日の嘘!ある在日コリアンの変節


1976年5月1日 朝日新聞5面のコラム「論壇」に
以下のような文章が載った。

「65万人」を読んで 未来世代への思いやりこそ必要


「65万人」とは朝日新聞で連載されていたコラムで、
その内容は在日コリアン(在日韓国・朝鮮人)に関することを記したものであった。
「65万人」とは当時の在日コリアンの公式な人数である(非公式にはもう少し多いらしい)。




その内容を引用すると…   ※赤字は筆者

~略~ そこでこれらの問題の基本にある幾つかの点を整理して提示して見たい。 ~略~ 
一つに彼らがなぜ日本に存在するかという点であるが、 ~略~ 
彼らは日本の植民地化の過程で日本にきたのであり、
この点を日本の若い人たちはあまりわかっていないということであるが、これはまちがいない。
しかし、いままでこの過程を「強制連行」のイメージで強調しすぎた面はないだろうか。 ~略~
筆者の研究では、彼らは「強制連行」というよりはむしろ「移住」の線がつよい。 ~略~。


これを書いたのは田駿(でん・しゅん)という人で在日コリアンである。
彼の著書「日韓の硲に生きて」から経歴を拾ってみると、

1920年   韓国平安道に生まれる。
1943年   専修大学2年次に学徒出陣、中支那派遣軍に入隊
1952年   来日
1977年   韓国民団権益擁護委員会副委員長として差別撤廃運動に関わる。
1994年   同委員長として、在日の地方参政権運動に関わる。

田駿氏は日韓併合時代の朝鮮半島で生まれ、帝国軍人として中国戦線で戦い、
1952年に来日(当時の状況からして密航か?)した人物である。
戦前の併合時代や朝鮮戦争当時のことも知っている人物であり、
当然、戦前戦後の日本及び日本人のことも知っている人物である。



その田駿氏は、在日コリアンは「強制連行」ではなく「移住」と述べている。


他にも“「65万人」を読んで”にはこのような記述がある。 ※赤字は筆者


過去のいきさつよりかは未来をどうするかという志向が是非必要であり、
その点でかれらの未来世代の行く末を思うこころ根が必要であろう。
われわれは未来のために過去を犠牲にし得ても、
過去のために未来を犠牲にすることはできないからである。

また彼らからすれば、そのエネルギーは日本の社会に還元し、
寄与する気持ちがなくては、日本の社会から信頼されず、
敬遠される存在になるのは当然であるといえよう。
現実の生活向上も、差別の問題も、
この点を考慮に入れなくてはならないということである。



素晴らしい!!!!!!




未来のために過去を犠牲にしても、
過去のために未来を犠牲にすることはできない。

日本に寄与する気持ちがなければ、
信頼されず敬遠されるのは当然。


生活向上も差別もこの点を考慮に入れなければならない。





このような言動を多くの在日コリアンが行っていれば、
嫌韓なんて発生しなかったのではないか?



だが実態は、被害者ぶって、特別扱いを求める在日コリアンばかりである。



それなら信頼されず、敬遠されるのは当然である。








しかしその20年後……田駿氏が1996年に書いた本には

しかしここで考えるべきことは在日韓国人とは一体なんだということである。
 ~略~ 彼らがいまいきなり日本に住んでいるわけではない。
いわば戦前に強制連行されてきた人たちとその子および孫たちなのである。

日韓の硲に生きて P104からの抜粋




なんだ!これは!



1976年には「強制連行」ではなく「移住」と書いた人物が、

20年後には「強制連行」と書いている。



全くデタラメじゃないか!



この変更は民団の活動家(1977年から)になったことが大きいのかもしれないが、
だからと言ってはいけない。

それとも20年間の研究の成果で意見が変わったのであろうか?




そうではないだろう。


つまり「強制連行の被害者」を演じた方が、
自分たちの未来のためになるからだろう。


その方が、主張が通りやすいからであろう。


これを見れば、コリアンに誠意を示してもダメだということがよくわかる。
在日コリアンが「移住」と分かっている戦前生まれのコリアンが平気で前言を翻すのだから。



自分たちが被害者を演じることで、

日本人を批判し、侮辱し、差別する



そう…これはコリアンの差別行動なのである。

「小松川事件」って知ってますか?

・1958年の在日の犯罪「小松川事件」
・日本人が率先して除名嘆願をしていた
在日コリアンは積極的ではなかった。



小松川事件

 小松川事件をご存じだろうか?


小松川事件は別名「小松川女子高生殺人事件」といい、
1958年8月17日、東京都江戸川区小松川
当時都立小松川高校に通っていた太田芳江さん(16)が襲われ、殺害された事件である。

のちに犯人として同学校の1年生で、
在日コリアンの李珍宇(18)が捕まった(但し被害者との面識はなし)。

その後の調べで、同年4月にも同様の事件を起こしていたことが発覚し、
2件の強姦殺人事件の犯人として起訴された。




李珍宇の裁判は早いペースで進んだ。
翌年1959年2月には東京地裁判決、同年12月には東京高裁判決が出た。

いずれも死刑判決である。







日本人の助命嘆願運動!

ここで日本人の間から「助命嘆願運動」が起きた。

その経緯は、李珍宇被告の話を聞いた朝鮮史を専攻する旗田巍氏が大勢の識者に協力を仰いだ。
その中には大岡昇平氏や木下順二氏、吉川英治氏、渡辺一夫氏などそうそうたる顔触れが名を連ねている。


旗田巍については以下を参照




この部分を「人権の思想 戦後日本思想大系2」の
金達寿“「小松川事件」の内と外”のP271から抜粋すると、

~略~
それにたいして、都立大教授旗田巍氏らによる被告の「助命嘆願運動」がおこったことを、私は知った。
これには、前記の朝鮮人学生たちも、控え目に加わってはいたが、これは、どちらかというと、
日本の文化人や学生たちが中心となっているもので、
ここから、 ~略~  「李少年をたすける会」が生まれた。  ~略~


在日コリアンよりも、日本の文化人の方が中心になって参加している。
それも2名の若い女性を強姦殺人した在日コリアンの助命を…である。



どうしてこんな犯人を「たすける」ことに熱心になるのであろうか?




そして…もしこの犯人が日本人だったら、
大岡昇平氏や木下順二氏は立ち上がったのであろうか?




この会の「主旨」説明によると「助命」の理由は以下のである。

1. 李少年は心より悔悟している。
2. 李少年は犯行当時未成年であった。
3. 李少年は在日朝鮮人である。
4. 被害者の家族も寛大な措置を望み、世間的にも多様な意見がある。



 ここでは「3.李少年は在日朝鮮人」の中に以下の記述がある。

 ~略~
 私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮との不幸な歴史に目をおおうことはできません。
李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。
この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、
日本人としての責任を考えたいと思います。  ~略~


事件は不幸な歴史とつながりのある?????
日本人としての責任??????



何をっているんだ?



「日本と朝鮮との不幸な歴史」とやらが例え事実であっても、
だから若い女性を強姦殺人する理由になるのか?

そしてどうして「日本人として責任」があるのか?



 まさか李珍宇被告が貧しい家の出身だから犯罪に走った。
それは日本人の責任だ。とか言うのか?

でも貧しい家に生まれた日本人でも朝鮮人でもほとんど殺人事件など犯さないだろう。
彼は完全に李珍宇自身の責任である。極刑でもやむを得ない




 まあ確かに在日コリアンに犯罪者は多かったかもしれないが

 






在日コリアンの行動!

 金達寿という作家がいた
金氏は在日1世で、生まれは1920年朝鮮半島慶尚南道の出身。10歳で日本に渡った。詳細は以下参照。



 
 その金達寿氏が、小松川事件について書いている。時期は1961年であるから最高裁判決が出る前後だと思う。


 当時の金氏は以下のように反応したと記している。

 ~略~
 このいわゆる「小松川事件」がおこったとき、  ~略~  その犯人が朝鮮人であったことで、
「ああ、またかー」という暗い気分、というよりは焦燥の方がさきに立って、
むしろそれからは目をそむけるようにしたものである。  ~略~

「人権の思想 戦後日本思想大系2」 金達寿“「小松川事件」の内と外” P268
 ※赤字は筆者



 上記のように金氏は小松川事件から目をそむけてできる限り関わらなくしていた。


 そして他の在日コリアンの反応は

~略~
 私のこの「ああ、またかー」という焦燥は、ひるがえってはまた、私のそれとおなじ体験を強いられている、
在日朝鮮人自身にたいする焦燥となる。特に若い世代、彼らはかつて私がそうであったように、
虚空に向かってするようなむなしい弁明を、その心につぶやきつづけているであろう。
たとえば、ここにいう「小松川事件」の、これら在日朝鮮人の若い世代にあたえたショックというものは、
それは、一般の日本人にはとうてい推しはかることもできないほど強いものであった。     ~略~

「人権の思想 戦後日本思想大系2」 金達寿“「小松川事件」の内と外” P269
  ※赤字は筆者


~略~
 事件のひきおこしたショックは、また別なかたちでもひろがりはじめた。
それは東大や都立大に在学する朝鮮人学生たちを中心としたもので、
彼らは、そのショックから、この日本のなかで孤立している
朝鮮人少年・少女たちを訪ねてはセッツル活動をおこなったり、
また、被害者である田中せつ子さんの家や太田芳江さんの家を訪ねたりしていた。 ~略~

「人権の思想 戦後日本思想大系2」 金達寿“「小松川事件」の内と外” P271
  ※赤字は筆者


 ~略~
 特に若いコリアンは、金氏と同様に「焦燥」を感じ、
「ショック」を受けながらも被害者宅を訪問する等の行動を行っている。
そこには「植民地支配への責任転嫁」的な考えは微塵も感じられない。  ~略~



このように見てみると、在日コリアンは被害者意識ではなく、
むしろ贖罪意識にまみれているとさえ言えよう。


 因みにセッツル活動とは、大学生の貧民救済活動のことである。詳しくは以下参照。





そしてコリアンは、犯人の李珍宇に対する助命運動でもあまり積極的ではなく、
控え目に参加しているのであり、むしろ日本人の方が積極的に参加している。

~略~
それにたいして、都立大教授旗田巍氏らによる被告の「助命嘆願運動」がおこったことを、私は知った。
これには、前記の朝鮮人学生たちも、控え目に加わってはいたが、
これは、どちらかというと、日本の文化人や学生たちが中心となっているもので、  ~略~


 このように小松川事件ではコリアンより、
良心的日本人の方がよっぽど活発に活動しており、
コリアン特有の「植民地支配にかこつけて」日本批判に転換することはしていないのである。


 まあ事件が事件だから…






では最近の状況はどうか?

最近では「小松川事件」に言及する記事
そのものが少なくなっていたので比較できないと思っていたが、
最近、在日コリアンで「小松川事件」への言及した本があった。

それは徐京植氏の評論集「植民地主義の暴力」である。
(この評論集が出たのは2010年であるが、「小松川事件」の部分は2005年に書かれている。)

徐京植については以下を参照



そこにはこう書いてある。

 野崎六助は「二件の強姦殺人において、一件は強姦及び殺人ともどもについて、
一件は強姦について、それぞれ無実は確信される。一件の殺人についてのみ確信が欠ける」と述べている。 
~略~ かりにそうだとすれば、 ~略~ 死刑判決はありえなかったであろう。

 ここに伺えるのは、  ~略~  わかりやすいストーリーに何が何でも当てはめよう、
厄介なことにならないうちにさっさと片付けてしまおうという権力の強固な意志である。

 ※植民地主義の暴力 徐京植著  P49  ※赤字は筆者



 確かに野崎六助は「李珍宇ノオト」の中で「無実を確信している」と書いているが、
ほとんど根拠らしい根拠を書いていない

それを根拠に在日コリアンの強姦殺人を「権力の意志」に捻じ曲げるとは困ったものである。



 またこうとも書いている

 日本政府が当時、北朝鮮への帰還事業を推進していたことを根拠に

 >>
日本人マジョリティの心理は、自らの国家が行なった植民地支配の反省、
戦後処理の過程で在日朝鮮人に加えられた理不尽な権利剥奪への批判に向かうのではなく、
厄介払いの方向へと向かったのであろう。

韓国の興味 慰安婦よりサンマだった!

・小泉元首相は、在任中6回靖国参拝を行った。
・しかし韓国とは定期的に会談していた。
小泉政権下で、韓国は慰安婦を持ち出していない。
・韓国にとって慰安婦より、サンマの方が重要だった。

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小泉政権下の日韓関係

2001年から2006年まで5年5か月に渡って政権を維持した小泉政権
日本では総理大臣が1年で交代することも珍しくない。
その中で、日本で5年以上政権を維持した総理大臣は
吉田茂佐藤栄作に続いて、戦後3人目
(中曽根氏は5年にわずかに届いていない)であった。


小泉政権および小泉純一郎に対しては、毀誉褒貶があり、多様な評価があるだろう。
保革両方からの激しい批判もある。


しかしその中で少なくとも保守派が高く評価するのが、
在任中に行った6回の靖国神社参拝である。


 小泉純一郎元首相についてはこちら参照



 当然、韓国および中国との関係は悪化した。
しかし中国はさておき韓国との間では在任中何度も首脳会談が行われていた。


小泉首相在任時の韓国大統領は金大中氏と廬武鉉氏であるが、両者とも複数回会談している。
しかしその中で慰安婦問題に言及されていないことはあまり知られていない。





慰安婦への言及なし

 例えば、小泉首相金大中大統領が最初に会談したのは2001年210月である。
当時は911テロの直後とあってテロにも話が及んだが、
それ以外の主な内容は「教科書問題」や「靖国参拝
それに「自衛隊の海外派遣」だった(10月16日朝日新聞4面)。


 そしてその後、日韓間での7項目の合意を行った。
その中には「歴史共同研究」や「靖国神社参拝」「日韓ビザの緩和」があるが、

慰安婦への言及はない



 なかなか日韓首脳会談を行わなかった朴槿恵大統領が、
その会談を開催する条件として、慰安婦問題の進展を唱えたのと
まったく違う対応をしているのである。


 これはどういうことか?


 つまるところこうだ。


韓国は慰安婦問題など、どうでもいいのである。


 「女性の人権」とか「慰安婦の心の傷を」とか言っているが、
そんなことはどうでもいいのである。


 ただ日本を侮辱すること差別すること、
因縁をつけるネタがあれば何でもいいのである。



例えば少し時間がとぶが、2005年11月にも日韓首脳会談をしている。
この時は小泉首相と廬武鉉大統領に代わっていたが、
ここで言及されているのは3項目で靖国」「教科書」「竹島である。


慰安婦は言及されていないのだ。



 上記3項目では、「靖国」では小泉首相以後は参拝していないし、
教科書は「新しい歴史教科書を作る会」の教科書は採択率が低かったため、
韓国の批判は沈静化してきた。


 そして「竹島」は領土問題であるので、進展は難しい。



 つまりネタがないのだ。


 日本を侮辱し、差別する、面白いネタが韓国にはなくなってしまったのだ。

だから慰安婦」に言及するようになったのだ


 毎年、靖国参拝をする小泉首相は、それだけで批判のネタになった。しかし後続の首相は全くやらなかった。


 それでは面白くないのである。


 そこで丁度良いタイミングでアメリカの下院で慰安婦への決議が取り上げられたのである。

韓国人は考えた。


 これを蒸し返せば使えるんじゃないか?…と


 そして現在に至るのである。





慰安婦よりサンマ

 韓国にとっては慰安婦問題より、サンマの方が重要なのである。

これはどういうことか?


 先に書いた、2001年10月の小泉=金の最初の首脳会談の時、
問題になっていたのはサンマ漁なのである。
これは首脳会談の要旨にも、項目の合意にもはっきり謳われている。



 サンマ漁の問題とは、2000年12月、
韓国とロシアの間で北方領土の周辺海域に漁業協定を結んだことに端を発している。


 当然、日本は反発し、ロシアと韓国に抗議した。
その際に対抗措置として、韓国漁船三陸沖の漁業申請を却下した。
これに韓国が反発したと言う事件である。


 韓国側は日本の措置の撤回を求めて、首脳会談でも言及している。
それ以外にも例えば韓国野党が、小泉首相訪韓の条件として、
「教科書の謝罪」「サンマ漁に対する措置の撤回」を挙げ、
それが認められないと「国会への訪問を阻止する」と主張するに至る。


つまり与党も野党も慰安婦など眼中になく、サンマが重要だったのだ。



 毎年靖国神社に参拝し、歴史を歪曲している小泉首相に対して、韓国の大統領がどうして言及しないのか?
 それよりもサンマの方にご執心なのはどういうことか?



 結局、慰安婦などはどうでもいいのである



 女性の人権などと言いながら、韓国の基地村の女性については全く言及しない。
歴史を真摯に学べと言いながら韓国の歴史のねつ造については何も批判しない。


 彼らのいう人権や歴史などは、差別にかけた衣に過ぎないのだ。


 2005年当時、韓国の外交通商部長官だったのは前国連事務総長潘基文氏だった。


 彼の発言を2005年6月3日朝日新聞夕刊2面から引用すると、


 「靖国」「独島」「教科書」3つの懸案を解決へ


 前述した2005年11月の日韓首脳会談での廬武鉉大統領と同じ意見だった。




 つまり潘基文さんが大統領になれば、

 慰安婦問題は解決していたのですね?


 そんな訳ないか!

 

日韓国交正常化 50年の真実

1965年2月17日 
当時の外務大臣 椎名悦三郎が韓国を訪問した。
目的は日韓基本条約の仮調印をするためである。


そこで椎名外相は韓国訪問の第一声として、韓国側に謝罪をした。


当時の外相声明はこの様なものである。
(1965年2月17日 朝日新聞夕刊1面 ※赤字は筆者)

「~略~ 両国間の長い歴史の中で、不幸な期間があったことは、
まことに遺憾であり、深く反省するものであります。~略~」

はっきりと、「遺憾」「反省」という言葉を使っている。



その後、2月20日に日韓基本条約の仮調印が行われ、
韓国の李東元外務部長官との間で共同声明を発表した。


その共同声明は以下の様なものである。
(2月20日 朝日新聞夕刊1面 ※赤字は筆者)

 「~略~ 李外務部長官は、~略~ 韓国民の対日感情について説明した。
椎名外務大臣は李長官の発言に留意し、このような過去の関係は遺憾であり、深く反省する。 ~略~」

ここでも「外相声明」と同様な表現で謝罪している。



この様な日本側の発言に対して、韓国側の反応はどうか?


例えば当時の日韓基本条約特命全権大使で、
韓国代表部代表や後の駐日大使、外務部長官を歴任した金東祥(キムドンジョ)によると、


「韓国にとっては過去の清算が一番大事。それが実現した。」
(2月21日 朝日新聞2面 ※赤字は筆者)


また日韓基本条約に反対している学生団体は

過去の歴史を清算したことは良いが、形だけではないか?」
(2月21日 朝日新聞2面 ※赤字は筆者)


 と、「形だけ」と危惧をしているが、過去の清算をしたと評価している。


 また韓国国会では野党の追及に対して、文外務部次官が

 「~略~ 日本側の謝罪は、~国際的に公式な謝罪と解釈」
 (1965年8月10日 朝日新聞夕刊2面 ※赤字は筆者)


韓国の国会で、韓国の次官が「公式な謝罪と解釈」と答弁しているのである。



しかし現在の韓国では、謝罪したと認める意見がほとんどない。
例えば日韓のメディアが行った共同調査では韓国人の95%が謝罪を認めていない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150619-00000007-rcdc-cn
(※赤字は筆者)


2015年6月18日、韓国・東亜日報によると、日韓国交正常化50周年を迎え、
東亜日報と日本メディアが実施した共同世論調査で、
両国国民の歴史認識の格差が5年前より広がったことが分かった。


共同世論調査では、「日本の植民地支配を含め、過去の問題が解決されたと思うか」という質問には、
日本人の約半数となる49%が「そう思う」と回答。
一方で、韓国人は「そう思わない」が95%に上った。

植民地支配に関しては、「日本が十分に謝罪したか」という質問に
「謝罪した」と回答した日本人は65%で、
5年前の調査(55%)よりも大幅に増えた。
韓国人で「謝罪した」と回答した人はわずか1%にとどまった。



たったの1%しか「謝罪した」と認めていない。
当時は国会で正式に政府が述べているのに、反日教育の成果は絶大である。 



日韓基本条約調印から1年後、韓国側代表の李外務部長官が以下のような談話を発表した。

「調印の日は ~略~ 両国の不幸だった過去を水に流すための意義深い日である。」
 (1966年6月23日 朝日新聞2面 ※赤字は筆者)



その後50年、「過去を水に流す」どころか、むしろ悪化している。



これこそが日韓正常化50年の事実であろう。

戦後韓国で、一番最初に日本語の歌を歌った歌手。観客の反応は…。



反日教育による反日行動



日本の統治時代は、韓国人にとって本当に悪い時代だったのだろうか?


フランク永井の韓国公演

 韓国では長い間、日本の歌を歌えなかった。
それは韓国の方針であったのだが、
韓国の大衆の前で初めて、日本語の歌を歌ったのはフランク永井だった。

 フランク永井についてはこちら参照。



 このあたりの経緯を当時の韓国大使館に勤めていた外交官の町田貢は著書にこう記している。
 以下の引用は「ソウルの日本大使館から」町田貢より。


 ~略~ 日本の歌手が大衆の前で、初めて日本の歌謡曲を日本語で歌ったのは、
フランク永井が最初のはずである。一九六八(昭和四十三)年、
彼が韓国公演にやってきて、ソウル、大邱、釜山の三つの都市で歌った。

 ~略~ 日本語で歌わないというのが許可条件だったから、
ソウルと大邱ではみな英語の歌詞だった。 ~略~ 超満員で立ち見をするのも大変だった。
例によって英語の歌を歌ったが、数曲歌ったあたりで、
「日本の歌を歌え、有楽町で逢いましょうを歌え」と激しい野次が飛び出した。 ~略~

 観客はフランク永井に「日本の歌を歌う」ようにリクエストした。
ここには日本文化や日本語に対する敵視は一切ない。
大体「有楽町で逢いましょう」は戦後のヒット曲である。
戦前からの慣れ親しんだ曲なら分かるが、戦後の歌であり、
韓国人の知らない(ことになっている)歌のリクエストをされるとは、
余程日本のヒット曲への憧れや親近感があるのだろう。

有楽町で逢いましょう」は1957年の歌。



結局、戦後の韓国政府が「日本敵視政策」をしていたことが、
韓国国民に「反日を強いていった」のではないか?




戦後初の日本語の歌 そしてアンコール

 そして現場の判断で、日本語の歌を歌うことを決断する。

 ~略~  場内騒然となっているところに、
フランク永井のヒット曲『有楽町で逢いましょう』の前奏が流れ出した。
マイクを持って歌いながら、フランク永井が舞台の中央に向かって静かに歩き出した。
会場からは割れるような拍手とどよめきが起こった。そして、場内はシーンとなった。

 日本の歌は大盛況であった。そして「拍手とどよめき」ののち「シーン」となった。
観客は聞き込んでいたのである。恐らく当分日本の歌手による日本の歌を聞くことができない。
だからみんな一言も聞き漏らさないようにと、静かに聞いていたのであろう。

 ~略~  歌い終わって舞台から引っ込もうとすると、
 「日本の歌、日本の歌」
 と、再び会場は騒然となった。フランク永井が困惑した表情で舞台裏の方を見た金局長が、
 やれやれと彼にサインを送った。
 こうして、結局『羽田発7時50分』『君恋し』『夜霧の第二国道』など四曲を歌った。

 上記までの引用はP277~278



 結局、国民レベルでは反日は多くなかった。
戦後、韓国政府が反日政策をとり、反日を国是としたからである。


 もちろんこの当時(1968年)では反日行動が一般化していた。
しかしそれは日本統治時代の個々人の経験に基づくものではない。
実際には個々人の経験では日本との関係は良かったのである。

日本時代を知り、日本人と接した韓国人は親日的だが、
戦後生まれで、日本人と接したことのない若い韓国人は反日的になる。


 またこの著書の中では、アジア映画祭が韓国で行われた際、
日本の女優が韓国に行ったが、彼女たちの和服姿は大人気だったとの記述もある。




戦後作られた反日感情

 町田氏の著書の中には、反日行動もたくさん書かれている。
事実当時(60年代)はもう反日的雰囲気だったのだろう。

 それは韓国政府の反日政策の成果であり、元からではなかった。

但し現在では反日教育を受けた世代が国民の大半になったので、事情は違っている。



つまり
「日本の統治時代が悪かった」
 → 「だから怒っている」  ではなく



「日本の統治時代は悪くなかった」
→ 「でも戦後韓国では反日でなければ生きにくい」
→ 「そのうち反日が面白くなってきた」
→ 「だから反日を推進する」 
 のである。



 だから日本が反省しても反日はなくならない。
 韓国の反日政策をやめなければ、日韓改善はない。
 そのためには嫌韓を利用し、韓国への贖罪意識を解消し、
韓国の反日政策に反発しなければならない。


嫌韓こそが、日韓改善のである。

韓国の暴論を論破する方法!

韓国を論破するには
どのような勉強をすればよいか?






韓国が嫌いな人、当惑する人、疑問に思う人、


あなたは正常です。



あなたが疑問を持つのは当たり前なのです。


なぜなら韓国とは
我々の理解を超える存在だからです。


これは決してヘイトの意図はありません。
しかし隣の国を理解する上で避けては通れない道です。


なぜ日韓関係が良くならないのか?

その答えはここにあります。

日韓関係に興味のある方は少々お付き合い下さい。









1.日本の真摯な謝罪は必要か?


韓国の文在寅大統領が徴用工問題に関して、

個人の請求権があることを宣言しました。





これまで韓国は徴用工に関しては

日本との請求権は終了しているという

見解を持っていました。




韓国では廬武鉉政権時代に

そのような見解をまとめていた。



因みに廬武鉉政権の参加していたのが、

現在の韓国大統領  文在寅氏。



その韓国と日本との間で、徴用工の問題は

解決済みの問題となされていた。






それなのに韓国大統領が

徴用工問題を解決していないという。






慰安婦問題では

2015年に「日韓合意」をしたのも関わらず、

ほどでひっくり返した。



今年あった韓国大統領選挙では

全ての候補が日韓合意の再交渉に言及している。





また北朝鮮の挑発が治まらないのに、

日本海呼称問題で、東海との併記を要求し、

旭日旗でのいちゃもんも常習になりつつある。






こういった状況はどうして生まれるのだろうか?







多くの人は


日本が真摯に謝罪しないからだと言う





私も以前は

韓国に真摯に謝罪すれば、仲良くなれると思っていました。





しかしそれは間違いなのです。







2.韓国に同情的だった若い時分


以前は私も

韓国人が怒っているのは
真摯に謝罪しないからだ。


こう思っていました。






日本は昔、韓国にひどいことをした。

だから韓国が怒るのは当たり前だ…と。






20数年ほど前に学生だった頃、

私はある人の本に夢中になっていました。




それは朝日新聞の記者の本で、



その人は朝日新聞のエース記者と言われていました。



当然、左に傾いた本です。



しかし学生のころには

そういう意見に説得力があるように思うのです。




権力に反対する


弱者を守れ


人権を守れ


そのために闘うぞ





そういう意見を大上段に振りかざし、

叫んでいるのが格好いいのです。







今でもそういう意見に反対なわけではありません





ただそう言っている連中が中国や北朝鮮には

まるで批判しないのです。






しかし私の若いころには

そういう意見に惹かれていたのは事実です。






そういう若者だった私が、

韓国にどういう意見を持っていたかは

容易に想像できるでしょう。





もちろん日本は韓国に

真摯に
反省しなければならない
もっと真剣に謝罪しなければならない。




そう考えていたのです。








しかしそれがひっくり返る事柄があったのです。



それが慰安婦問題でした。






3.私の転換点(慰安婦問題)


慰安婦問題は1991年に韓国の元慰安婦
カミングアウトすることによって、両国間の問題となりました。




当初は日本軍が強制的に連行した性奴隷だとしていました。



吉田清治
という人物が、それを裏付ける証言をしていました。



軍の命令で、済州島に行き、
慰安婦狩りをしてきた
…と。







実はこの証言は地元の済州島では、

既に否定されていました。



それほど多くのない村で、若い女の慰安婦狩りがあれば、
地元の人たちがわからない訳がありません。



それなのに誰に聞いても知らない…。


覚えていないのです。








しかし当時、私はそれを知りませんでした。



1991年以降、慰安婦問題が
取り上げられていたにもかかわらず、

私はあまり興味ありませんでした。




と…いうより、一般的には
ニュースになっていなかったと思います。




私が慰安婦問題を認識するようになったのは、
1997ごろでした








当時はテレビの討論番組で
慰安婦問題が話し合われていました。





その時に慰安婦の強制連行の話が出ていました。






現在では慰安婦問題は強制連行の問題ではなく、
「女性の人権」問題と言われていますが、
当時は慰安婦の強制連行の問題でした。




そして議論が行われていたのですが、
その時にある論者が

慰安婦強制連行の証拠はない」

と明言しました。




私はそれを聞いていて驚愕しました。





なぜかというと、先に書いたように当時の私は
朝日新聞の記者の書く本に夢中になっていました。


それ故に慰安婦の強制連行など当たり前だと思っていました。




もちろん悪いことだと思っていたし、
いけないことだと思いました。



しかし日本軍は絶対だったので、
そのくらいのことはやっているだろうと考えたのです。




逆に悪逆非道の日本軍が、
若い娘を無理やり性奴隷にもしないのは、
むしろ違和感があったのです。




それ故に強制連行の根拠がないと聞いた時に、

「そんな訳ないだろう」

と思いました。





しかし討論番組の中で、反対派の人たちから反論はありません



その日だけではなく別の討論番組でも、

慰安婦の強制連行の反論はなかったのです。






これには違和感がありました。



悪逆非道な日本軍
どうして若い娘を暴力的に連れて行かないんだ…と。





そこで…

もしかしたら、日本軍が悪逆非道というのが、
間違っているんじゃないのか?


と考えました。






そして半信半疑だった私は、

幾つかの文献を当たって調べました。




慰安婦問題、竹島問題、在日コリアンの問題、

その他多くの問題を調べました。









そこで理解したことは、

戦後日本の教育はデタラメ

ということです。





戦後教育は、

戦前の日本が悪かったという教育で、
戦前を否定することが正しいという教育だったのです。







故に、戦前に日本に支配された韓国などは、
可哀そうな被害者でなければならないのです。



それ故に韓国を批判するような言動は許されず、
日本は朝鮮半島で良いこともやったなどとは言えなかったのです。



そういうことも言えば、
大臣であってもクビになりました。

例えば1996年に江藤総務庁長官は、

「日本は韓国で良いこともやった」

と発言をオフレコでして、クビになりました。





そういうことが韓国タブーを呼び、


今の言葉で言うと、
韓国を批判することに委縮していたのです。





そういう状況の中で、
自虐史観でいっぱいだった私は、

現在では全くわりました。




それはその時、特に私の目を
見開いたモノがあったからです。







4.真実を知るためにやったこと!


戦後教育の中で蔓延していた自虐史観
その解消は簡単ではありませんでした。


当時はまだ現在と違い、韓国を批判する文献は少なく、
色物を見られるようでした。



そして色々な文献を読みました。



しかし文献はその書き手の考え方で
良くも悪くも書けます。



日本を良いようにも悪いようにも書けるのです。



朝日新聞が書くと、安倍政権はダメですが、
産経新聞が書くと、優れた政権になるのです。




両方ともは書いていません。



しかしスポットの当て方や強調の仕方で、
如何様にでも書くことができるのです。




だから随分後年に書かれた本はあまり役に立ちません。


それより当時書かれた本こそ役立ちます。
それに資料価値があるのです。





当時の資料はそれ自体に価値があります。


例えば、慰安婦問題を理解するには、
1991年以降の本を読んでもあまり役に立ちません。


何故ならそれ以降は
問題が拡散しているからです。

ある意図をもって書かれているからです




そういう状況では、慰安婦問題にかこつけて
一旗揚げようという輩がたくさん蠢きます。




つまり大げさに嘘を言う人たちが出てくるのです。



だから日本が悪かったとか、韓国が良かったという、
色がついたものは避けるようにしました。



それよりも当時の人の生き様だとか、
朝鮮半島で仕事をしていた人だとか、


そういう人の当時の記録を読んでいきました。





しかしそれよりも良いものがありました。


それは当時の新聞です。



韓国を論破するための昔の記事57選はこちら







話は変わりますが山崎豊子という作家がいます。

山崎豊子の代表作と言えば不毛地帯です。


この作品はシベリアに抑留された
日本軍人をモデルにしています。



そのモデルは伊藤忠商事瀬島龍三さんだと言われています。



彼は戦前、参謀本部に所属して、作戦を立てていました。



彼の所属していた参謀本部の作戦課というのは
エリート中のエリートが所属していました。





どの程度のエリートかというと、


当時、軍人になるのは士官学校に入ります。
陸軍なら陸軍、海軍なら海軍の士官学校に入るのです。



この後は陸軍について説明します。
よく変わるし、予科などもあるのだが、簡単に記す。



陸軍士官学校は、今でいうところの高校程度に当たります。
その前には陸軍幼年学校というのがありますが、
これは中学にあたります。


この士官学校を卒業すると、大体20歳くらいで、
その後、部隊に配属されます。


この時に少尉になります。

その後、中尉、大尉と出世しますが、同期は数百人います。


そして原隊で実績を挙げて、上司の推薦があると、
陸軍大学校に入れます。



この時大体30歳くらいになっています。


陸軍大学校に入るのは1学年50ほどで、
同期の中でも少数派になります。



その50人のうち、上位に入らないと、
作戦課には入れません。


この5人は卒業の時に
天皇陛下から恩賜の軍刀をもらえることから
軍刀組などと言われます。




このようなエリート集団が、
参謀本部の作戦課だったのです。



因みにあまりにもエリートで、
あがってきた情報を素直に読むことができず、
ケチをつけていたので、戦争に負けたとも言われています。








そんなエリートだった瀬島さんが

11年間シベリアに抑留されて日本に帰ってきます。


彼が帰ってきた時はまさに浦島太郎状態でした。



そりゃそうでしょう。


戦前戦後と激変する世の中で、
11年間も外国で抑留されていたのですから。



いくら頭脳明晰な瀬島氏でも
戸惑うことが多かったと思います。




そして瀬島氏が現状を理解するためにやったことが、
新聞を読むことでした。



それも戦後の新聞を全部読むことでした。



彼は新聞の縮刷版のページをめくって、
この11年間に日本で起きていたことを知るのです。


そして11年間の空白を埋めたのです。




新聞はいい加減というイメージもありますが、
その当時書かれたものなので、
現在ではわからない雰囲気を伝えているものです。




当時の状況を知るのなら、
新聞を読むことが一番理解できます。






その話を知った私は…
戦後の新聞を読むようにしました。




その中にある記事を読んで、
その当時の雰囲気を知ろうとしたのです。



新聞記事を読むこと、
新聞の縮刷版を読むことを
長年続けていったのです。




その中で私の目を見開かされる記事に出会いました。



韓国を論破するための昔の記事57選はこちら









5.ある記事との出会い

 それは1953年12月4日朝日新聞の記事で、
日本人記者と韓国人記者の対談でした。
1953年ですから終戦からしか経っていません。
そのような状況の中で両国の記者が対談しています。


 両記者の年齢は書いてないのですが、間違いなく戦前を知っている人たちです。
因みに韓国人記者は関東大震災の年(1923年)に早稲田大学に通っていたとのことです。
 この両者は日本人記者が韓国特派員で、韓国人記者が日本特派員でした。


 その両者は何を言っているのでしょうか?
 記事に一部を引用すると、

津島  たとえば街の店に入る。
日本人ということがわかると主人が「まあ奥に入って座りなさい」といった調子で
温かい空気を感じるが、われわれが官吏を訪問するとガラリと空気が変る。
実に冷たい。日本に対しての声明でも非常にきつい。 


この津島というのが日本人記者です。
この津島記者は1953年当時朝鮮半島で仕事をしていて、
一般民衆の、日本人に対する温かい空気を感じているのです。


当然当時の韓国人ですから、日本の統治時代を知っています。
その彼が温かい空気を醸し出しているのです。


因みに、後半部分は官僚が非常に日本に冷たいことを書いてあります。
元々韓国民衆は反日的雰囲気を持っていなかったが、
政府は反日だったことを表しています。



このような記事に接すると、これまでの自虐史観は間違いだと確信します。
この記事と接したことを境に、色々な記事を、
特に1950年代中心に漁っていきました。


そうすると、これまでとは全く違った風景が見えてきました。


韓国の民衆は決して反日ではなかったこと、むしろ親日だったこと、
日本の文化に接したいと強烈に思っていたこと、
むしろ他国の反日度合いが激しい(特にフィリピン)こと、
そして韓国政府が積極的に反日教育をしていたこ

などがわかってきます。



結局、戦後の日本の歴史教育は嘘だらけだったのです。


それが昔の新聞記事を読むことで理解できたのです。


 


 私はその後、1945年から80年代までの朝日新聞で、
韓国関係の記事はすべて目を通しました。



 すべてです。


 記事はもちろん、コラムや特集、社説なども含めてです(ただし読者投書欄は除く)。


 その中で分かったことが、戦後の嘘だったのです。



韓国を論破するための昔の記事57選はこちら







6.韓国に怒る前に…。

 韓国に対して反発する気持ちはわかります。
私がそうだったように、彼らに対してムカついているでしょう。


 でも、ただムカついているだけでは
ダメなのです。


 そんなこと何の役にも立たないどころか、むしろ有害です。
 感情に任せた行動は他人の共感を得ることができず、また反感を買うだけです。



 例えば日本の一部のヘイト団体などは、気持ちはわからなくもないですが、
完全な逆効果になっています。あれでは私でさえも反感を募らせます。



 必要なのは正しい知識、正しい事実なのです。
それに基づく正しい批判こそが韓国には有効なのです。
もちろん韓国は根拠を挙げた反論を無視します。
しかし周りで見ている人はどうでしょうか?


 周りで見ている多くの日本人は、自虐教育による贖罪意識にまみれています。
彼らは知らないのです。日本の統治時代の朝鮮半島が善政だったことを。


 だから先に書いたように韓国人は温かいのです。



 私には確信があります。


 日本の統治時代が良い時代だったことを。
そしてそれ故に韓国人は反乱を起こさなかったことを。
日本の統治時代が善政だったからこそ、温かい空気を感じるのだと。




 それも当時の新聞を読みこんだからです。

 長い時間をかけて読み込んだからです。




 どのくらいの時間をかけたのかというと、年単位にはなります。
私も仕事がありますし、それ故に土日くらいしか使えません。それも使えない日も多いのです。


 その時にコツコツと縮刷版を読んでいきました。
縮刷版は1か月単位です。30日分です。
それがどれだけのボリュームかわかると思います。


 確かに昔の分量は今よりずっと少ないですし、夕刊がない時期もありました。
しかし昔の新聞は文字がかすれてるので、より読み込みにくいのです。


 そうやって記事を一つ一つ読み込んでいきました。


 因みに私は1度だけではありません。

 何度も繰り返し読みこみました。



 1度80年代まで読み込むと、また45年の終戦当時まで戻って、韓国関係の記事を探すのです。


 なぜそんなことをするのかというと、読み落としがあってはもったいないからです。
それに同じ記事でも何度も読むとニュアンスが変わってきます。
だからそうならないように何度も読みなおすのです。



 現在では4往復しています。


 トータルで年以上の時間をかけて、縮刷版と取り組んできました。
そして確信しました。この方法は非常に使える…と。


 
 そのためにぜひ皆様にも
この方法を推薦したいと思います。



 当時の…特に50年代の記事を読み込むことで、
戦後の自虐史観から完全に脱出することができるでしょう。




韓国を論破するための昔の記事57選はこちら






しかし忙しい皆様が、時間をかけて新聞の縮刷版を読み込むことは無理でしょう。


 それは私が身に染みて理解しています


 縮刷版は厚いので、朝から夕方まで籠って読み込んでも数冊ということもザラなのです。
つまり土日使ってやっと1年分しか読めないということも普通にあります。


 そういうことを忙しい皆様にやれということは無理でしょう。


大体、休日は遊びたいものです。もしくは寝ていたいものです。


特にデスクワークの人たちに、毎日、資料とにらめっこしている人たちに、
土日も新聞とにらめっこしろとは言えません。





そこでその手間を省きました。


私がピックアップしたのです。



多数の記事の中から必要と思われる記事を50ほど抽出しました。



もちろんこの記事はほんの一部です。
もっと紹介したい記事はたくさんあります。
しかしそんなことをしていればキリがありません。
それ故に50程度に絞らせてもらいました。



この記事を読めば、

◎韓国民衆が日本に反発していなかったこ
◎韓国政府が反日世論を形成していったこ
◎歴史問題など、後付けで作られたこ
在日コリアンが、どれほど危険だったか
◎韓国には誠意は不要である


ことなどがわかります。





そして記事だけ読んでもその当時の状況がわからないと思い、記事毎に解説をつけています。


この記事は50年代を中心にしていますが、当時の状況は今とかなり違っています。
そのために理解しにくいところもありますが、当時の状況を理解する一助にと思い、
説明文を付けました。これを読めば、前後の状況が理解できると思います。


現代に生きる我々からは60年以上前の状況を想像しつつ、
正確な知識を得ることが可能になります。



この資料を読んで欲しいことは、
何よりマインドブロックを解除してほしいことです。


マインドブロックとは心理的な壁です。
日本が韓国に悪いことをやったという壁があると何を言っても無駄になります。


そして結局、とにかく謝ればいいとなるのです。



そうじゃなく、日本の朝鮮統治は善政だったとはっきり理解することです。
善政であるがゆえに、終戦後の韓国人が反日ではなく、
むしろ日本人にやさしかったのです。


しかし、ただ善政だったといっても信じられないでしょう。
これまで流布されてきた自虐史観からあまりにも逸脱しているのですから。



それ故に当時の記録=新聞記事を読むことが必要になるのです。
当時の韓国民衆が日本人に温かい気持ちを持っていたということは
現在では報道されません。


しかし当時は普通に報道されていたのです。


 当時の記事を読んで、自分の心を解放してください。





 ところでこの記事はほとんど朝日新聞(一部日経新聞)です。


 なぜ朝日新聞かというと、現在全国紙で一番自虐的な新聞だからです。
その朝日新聞が昔は全く別のことを書いていました。


 先に引用した津島特派員の報告もそうです。
今では絶対報道しない「韓国民衆が日本に温かい気持ちを持っている」という報道を
普通にしているのです。


 
あの朝日新聞が…です


そういう面で朝日新聞の記事を取り上げることでマインドブロック(心理的な壁)を壊すのに役立つと思ったのです。


これが産経新聞では「右翼新聞だから当然」と解釈されてしまいます。


あの朝日新聞でさえも…韓国民衆が温かいことを記事にしているのです。



韓国に単なる当たり散らすだけでは意味がありません。

正しい知識、正しい事実を身につけましょう。





そうすることが韓国の暴論に対する
有効な反論となり得るのです


韓国を論破するための昔の記事57選はこちらsinjitsu.thebase.in

終戦10年後の在日コリアンの犯罪割合

100人に1人これは何に数字か分かるであろうか?



これは前回までに書いた「相互釈放問題」が持ち上がった
1955年前後の在日コリアンの刑務所に行っていた比率である。




当時の国会議事録から刑務所に行っていたのは


1955年12月8日 衆議院法務委員会 ※赤字は筆者

 内田政府委員  ~略~  遺憾ながら日本におります朝鮮人
 ~略~  非常に犯罪者が多いのでございます。現在刑務所におります人員総数約六万のうち、
ほぼその一割が朝鮮人
によって占められておるという現状でございます。
これを全人口の比率から考えますと、日本人の犯罪率に比べまして十数倍という実情でございます。


ここではっきりと「約六万人のうち、ほぼその一割」と言っている。

日本人を含めて、刑務所に行っていたのは約六万人。その内の1割がコリアンである。

つまり当時約六千人のコリアンが刑務所に入っていたのである。





では当時、在日コリアンは何人くらいいたのか?これも当時の国会議事録から拾ってみよう。


例えば1955年6月18日 衆議院法務委員会では、 ※赤字は筆者


小泉政府委員  ~略~  一、二の有力な韓国人の団体の長の方で、
私に、密入国者を送還するとかしないとかは問題ではなくて、
六十万人という朝鮮人が日本に在留して現存しているというこの現実に立って、  ~略~  



1955年6月23日 参議院文教委員会では、  ※赤字は筆者

 安部キミ子君  ~略~  実は私どもが北朝鮮の訪問をしました際に、
教育相、今日日本でいえば文部大臣に当るところの白雲南という方とも
いろいろ懇談したわけであります。現在六十万人に余る在日朝鮮人がおるし、
  ~略~



 1956年4月24日 参議院法務委員会では   ※赤字は筆者

 政府委員(松原一彦君)  ~略~  しかし、事務当局の方に聞いてみますというと、
この法案は、ようやく最近にこれが実施せられるようになったのだそうでございまして、
六十万人に余る最大多数の朝鮮の諸君の中には、 ~略~



因みに最初の小泉政府委員とは、小泉純一郎元総理大臣の父、小泉純也である。



まあ大体、在日コリアンは約六十万人というのが当時のコンセンサスだったようである。



つまり約六十万人のうち、約六千人が刑務所に入っていた。



罪を犯していた数ではなく、刑務所に入っていた数である。だから吉田茂もGHQにこんな要望を出すのである。
吉田茂マッカーサー往復書簡集 袖井林二郎 P448~450 ※赤字は筆者


親愛なる閣下

日本の戦後の諸問題のうち朝鮮人と台湾人に関するものがありますが、
彼らはかつて日本国民であり、現在もこの国に依然として滞在しているものです。

ここでは台湾人については、彼らが比較的少数であり、
それほど問題を起こしておりませんので、しばし触れないことに致します。

しかし、総数約一〇〇万人、
そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、
われわれはいま早期の解決を迫られております。

私はこれら朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです
その理由は以下のとおりです

~略~

3.もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割合がかなり高いのです。
彼らは我が国の経済法規を破る常習犯です。

かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、最も悪質な政治的犯罪を犯しがちなのです。
投獄されているものは、既に七〇〇〇人を超えています。<<1949年時点なので数字が若干違っているが、基本的に犯罪の常習者集団だったのである。


こういう実態を指摘されると、「差別だ!」と言って言い逃れる。


我々は、「事実だ!」と明確に主張しなければならない。

戦後の朝鮮人は、日本で何をやっていたのか?


・1952年 破壊活動防止法が作られた。
・当時の日本の状況は朝鮮人が暴れまくっていた。
・日本に受け入れられないのは努力不足。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 1952年5月28日 朝日新聞夕刊2面に以下の記事が載った。
 
 >>
北鮮系朝鮮人の破壊活動 吉橋特審局次長説明 3月中暴力事件80件

北朝鮮より早く、より大規模に日本人拉致をした国


・日韓で行われた相互釈放
・足元を見た韓国
・韓国は、誠意を踏みにじる

―――――――――――――――――――――――――――――――――


北朝鮮より早く、より大規模に日本人拉致をした国。
 韓国における国家的な日本人拉致という犯罪。




拉致国家韓国

 相互釈放という言葉をご存じだろうか?

韓国は1952年1月に李承晩ラインというものを公海上に勝手に引いて、それを越えた漁船を勝手に拿捕していた。



 この李承晩ラインは国際法上全くの不法な行為であるが、
現在まで韓国では「平和線」として、歴史を偽造して教えている。
もちろん国際法違反とは全く思っていない。

 結局、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約締結まで残り、
約4000人の日本人が拿捕され、死傷者は44人にも及んだ。




 この李承晩ラインによって捕まった日本人は、
一応裁判にかけられ、有罪判決が出されるのであるが、
刑期を終えても日本には帰ることができない。

 そのまま釜山の収容所に留め置かれて、外交取引のカードになる。


韓国の裁判でも刑期が終わった日本人を、何の理由もなく抑留するのだ。
正に当時の韓国はテロ国家、ならず者国家と言って過言ではない。


北朝鮮より先に、日本人の拉致を国家事業として行ったのが韓国である。





 他方、日本の長崎県の大村には韓国人の収容所があった。


 ここでは韓国から日本に密入国してきた韓国人と、
日本国内で罪を犯していた在日コリアンを収容していた。


 こちらは韓国と違い、法律に基づく収容であり、
韓国側に強制送還する順番を待っている側面もあった
密入国者は即刻だが、刑期途中の刑法犯は刑期満了後に送り返す)。


 しかし韓国側は強制送還を受け入れなかった。
そのため大村収容所は満杯状態になっていた。


 そこで大村収容所の韓国人と、釜山収容所の日本人を相互に釈放しようということになった。


 これが「相互釈放」である。


このことは1956年3月、当時の重光外務大臣と金韓国公使との間でまとまった。
当時の日本では釜山の日本人を解放せよという要求が強かった。
何の罪もないままに抑留されているのだから当然である。

他方で、国内で犯罪行為烏を行う在日コリアンへの反発も強かった。
彼らは日本人よりはるかに多くの罪を犯しており、日本の中でも困った存在だった。


そこに日本人を帰してもらう代わりに、
コリアンを国外に出せるのだから日本政府が喜んだのも無理はない。

早速日韓の外交当局の間で話し合いがまとまった。







日本国内の反発

しかし重光外相は国内調整をせずに韓国側と合意したため、
国内から、特に法務省から異論が噴出することになる。


なぜ法務省か?
それはこの相互釈放が、日本は釜山の日本人を引き取るが、
韓国側は大村の韓国人を一部引き取らずに日本国内で釈放して欲しいと主張したからだ。


引き取らない一部とは、密入国者(これは引き取る)ではなく、日本国内にいる在日コリアンの犯罪者である。
その中には前科10犯を越える罪人がおり、
そんな人物を釈放したら、“日本の治安がさらに悪化してしまう”という危惧があった。

治安を管轄する法務省としては黙認できないことだった。



この部分を1956年4月6日 朝日新聞2面の社説でこう主張する。
赤字は筆者

~略~ 何んと言っても筋の通らないのは、韓国側の主張である。
大村収容所で強制送還処分になっている約四百名の韓国人は、日本で罪をおかし、
刑を終えた者であって、これらの刑余者を本国へ送り還すべきことは、
国際慣行として認められているのみでなく、国内法上からも出入国管理令に明記されている。 
~略~ この韓国人の多くは凶悪犯で、中には前科十犯以上を重ねた者もいることを
われわれは考えないわけにはいかない。 ~略~


どうであろうか?
これは1956年当時の朝日新聞の社説である。


「韓国側の主張はおかしい」「この韓国人の多くは凶悪犯」等々韓国側に批判的である。
まあ全くその通りなのだから仕方がないが…。


 どの程度の凶悪犯かというと、1956年4月6日 衆議院法務委員会の議事録によると、
 ※赤字は筆者

○高瀬委員 ~略~ 今回釈放するその犯人の内容、それは政務次官も御存じでありましょうが、
科九犯ないし十二犯の者が十三人、六犯ないし八犯の者が八十人、三犯ないし五犯の者が二百四十人
こんな犯罪者が含まれているわけであります。 ~略~


合計約330人の犯罪常習者を、日本国内で釈放しろというのが韓国側の主張である。

本当に滅茶苦茶である。



この問題では、韓国側に融和姿勢を示して問題解決しようとする重光外相への風当たりが非常にきつい。
例えば4月13日の衆議院法務委員会の自民党の高瀬氏とのやり取りでは。
※1956年4月14日 朝日新聞1面より抜粋   ※赤字は筆者

高瀬氏 日本人漁夫は不法に抑留されているのだ。
罪を犯して韓国へ強制送還される韓国人の釈放と交換的に同じレベルで扱うことは国民感情が許さない。

外相  韓国の言うことを、なんでもかでも受け入れるというわけではないが、
出来るだけ寛容な態度で日本人漁夫を返してもらいたい。

そして「寛容な態度」で交渉を行った結果。
鳩山内閣では解決できず、岸内閣まで持ち越されることになる。


そして韓国の主張するように、韓国人犯罪者を釈放することになるのである。

その釈放された韓国人は再度日本国内で犯罪を行うことになる。



 岸内閣まで持ち越された相互釈放。
それに対して岸内閣では韓国側に、かなり譲歩した交渉を行う

それは1957年6月に訪米するためであり、
そのお土産として相互釈放問題を解決して、
日韓関係を改善する契機にしたいとの思惑があった。


 しかし韓国は、そういった日本側の足元を見越して、
それまでの交渉をブチ壊すような要求を突き付けてきた。






エスカレートする韓国の要求

 日本と韓国の間には、国交がなかった。故に国交正常化交渉が何度も行われた。
この交渉は初期の予備交渉を含めると、1951年(つまり朝鮮戦争中)に始まり、1965年に調印した。

14年間にわたる長期の交渉だった。


 しかしその間、何度か中断していた。その中断の一つが久保田発言に基づくもので、
その結果1953年~1957年までの4年間は日韓正常化の正式交渉が行われなかった。



 鳩山政権は日ソ国交正常化を上げていたため、反共国である韓国とは関係が悪かった。
短命の石橋政権を経て、岸政権ができると日韓間は急速に関係を深めた。
まだ岸政権ができる前だが、1957年2月2日(岸政権の成立は2月25日)には

「日韓相互釈放で近く協定へ」と、韓国の外務部長官が言明している。



そして日韓の正式交渉を再開させるに当たり、
まず相互釈放問題を解決することになり、
その交渉が1957年の6月までに行われた。


 なぜ6月かというと6月16日から岸首相の初訪米があり、
その前に日韓関係の改善をしたいという岸首相の意向があったからである。
当然それは訪米のお土産になる。



その後の経緯を朝日新聞の記事から拾ってみると ※赤字は筆者。

2月22日   「相互釈放」会談再開
3月 3日   日韓交渉、正式会談も再開へ
3月31日   日韓交渉再開交渉進む 韓国外務部長官 談
4月25日   日韓交渉 首相、渡米前に解決へ。まず抑留者の釈放
        早急に国交正常化を。李大統領声明。
5月 3日   日本人漁夫、11人を近く釈放。韓国政府。

5月20日   相互釈放にメド?抑留者問題、きょう岸・金会談 
        ※金裕沢韓国代表部大使  

5月28日   対日交渉、近く再開、梁韓国特使、パリで語る。
        ※梁特使は駐米大使で李大統領に近い人物。

6月 4日   すこし歩み寄る。首相帰国で大詰めへ
        ※岸首相は東南アジア歴訪していた。

  11日   日本ギリギリの最低線を示す。日本側さらに譲歩
  12日   日韓相互釈放 事実上の解決
        “15日までに解決”岸首相語る。日本側の財産請求権を譲歩
  13日   “刑期”表現で譲歩。“刑期を終えた”の表現残る。
        「久保田発言」撤回と対韓財産請求権の撤回で口上書提出
  14日   韓国、案文修正求む
  16日   韓国側から再修正案。財産請求権の処理など。外務省はきょう調印を予想
  17日   日韓調印、持ち越し。韓国の審議に手間どる。“足もと”みた韓国。



 こうして見ると、6月に入るまでは順調に来ており、12日には「事実上の解決」となっている。だが、14日には韓国から「再修正」を求められる。


14日に事態が急変したのがわかる。


岸首相は5月20日から6月4日まで東南アジアに歴訪しており不在であったが、
その間も石井光次郎副総理や外務官僚が熱心に交渉している。
そして合意まであと一歩のところまで行きながら、急に再交渉を求められたのだ






交渉の決裂

因みに事態が急変するまでも日本は多くの譲歩を行っている。


 例えば、大きく問題になっていたのは2点で
久保田発言の撤回対韓財産請求権の撤回である。


 「久保田発言」は先に書いたように1953年の日韓交渉時、首席代表の久保田氏が
「日本の統治時代には良いこともあった」と主張したことによって、交渉が中断した事件である。
 これは随分早くに撤回を決めていた。


 「対韓財産請求権」は日本及び日本人の韓国内における財産を日本側が請求する権利である。
これは韓国と日本で認識が違っており、韓国は「日本の財産請求権はなく、
一方的に韓国側の請求権だけがある」という立場なのに対し、
日本側は「韓国の対日請求権はもちろん認めるが、
日本の対韓請求権も当然発生する」という立場であった。

 
 この問題では、日本側にも「対韓財産請求権の撤回」はおかしいという意見が多かった。
例えば東京大学法学部の高野雄一助教授(国際法)は、
朝日新聞のコラム「論壇」に「韓国のいい分は無理ではないか 財産請求権の問題」を寄稿した。
※1953年10月23日 朝日新聞3面 ※赤字は筆者


その趣旨は以下の通りである。

「没収」は相手の所有物を取り上げることで、
「押収」は一時的に取り上げても後に返還しなければならない。
「没収」と「押収」の概念の違いを説明し、

一般国際法の原則では、特に私有財産については「没収」は認められない

韓国側は米軍が「没収」したのだから良いのだ。
というが、米軍にも(少なくとも私有財産については)「没収」する権限はない。
「押収」なら返還しなければならず、それが無理なら金銭で補償しなければならない。




 このように国際法上は日本の主張が正当なのだが、
日本は日本人漁夫を釈放してもらうために、対韓財産請求権を撤回したのだ。

 日本側は上記2点を認めるに当たり、口上書を韓国側に提出した。



 つまり日韓交渉の再開及び相互釈放の実現に、
大きな障害になっていた2つの問題は日本側の譲歩によって解決した。




しかし相互釈放は合意できなかった。それは韓国側が新たな問題を取り上げたからだ。


 それが6月13日の記事「“刑期”の表現で譲歩」である。


 韓国は釈放日本人が「“刑期”を終えて」釈放されたという部分に拘った。
それは李承晩ラインを日本側に正当なものとして認めさせるためである。


そして日本側は「“刑期”を終えて」という部分を容認したのだ。大幅な譲歩である。


故に、6月12日の記事で岸首相が「“15日”までに解決」と断言し、
朝日新聞でも13日に「こぎつけた“日韓相互釈放” 来月7百余名人帰る」として
交渉妥結を断定している。



 しかし韓国側は、さらに13日夜には表現上の問題として10ヶ所の修正を求め、
日本側は応じたが、さらに15日夜になって3~4項目の修正案を持ってきた。


 岸首相の訪米は16日の夜である。
その直前の修正要求だが、外務省ではそれも受け入れた。
それだけではなく「きょう調印を予想(16日の朝日新聞)と、なお希望を繋いでいた。



 しかし16日午後になって、韓国側から結論持ち越しの通告があった。
日本側が誠意を持って、ほとんど韓国側の主張を受け入れたにもかかわらず、
誠意を踏みにじったのである。




それでは何があったのか?

李承晩大統領は13日、UP通信の質問に書面で回答し、こういう言明をしている。
※1957年6月14日 朝日新聞1面  ※赤字は筆者

~略~ 「日本が李ラインの尊重など韓国の友情に値することを行動によって証明するまでは、
日韓の外交関係を確立するため正式会談を再開しても全くムダだろう」 ~略~

つまり李承晩ラインを合法的に認めろと言っているのだ。


 日本が努力して、韓国側の言い分をほとんど受け入れたのに、
最後の土壇場になった新たな要求を持ち出してきた。
 と…いうより、日本側が要求を受け入れてきたから、
新たな要求を持ち出したのだ。


李ラインを認めることなど日本にできる訳ないのに一方的に要求している。
とてもまともに交渉できる相手ではない。

彼ら韓国政府にとって譲歩とは結局、弱みだと認識するのだ。
それ故にもっととれると考えて要求を繰り返すのだ。



大体、相互釈放は韓国側には解決したくなかった可能性がある。


朝日新聞1957年6月17日1面にも

 >>
~略~ 日本の漁夫を李ライン侵犯のカドで捕まえて抑留しておくのも、
これをいわば“人質”としておくという“フシ”がうかがわれる。 ~略~

韓国の反日政策の本質は「パンとサーカスの政治」である。


「パンとサーカス」について



文藝春秋1975年2月号に「日本の自殺」という論文が発表された。
これを執筆したのは「グループ一九八四年」と名乗るグループだった。

「グループ一九八四年」は現在でもハッキリとは分からないが、
中心メンバーは香山健一氏(元学習院大学教授)であることは確からしい。

香山健一氏について


「グループ一九八四年」について
 上の参照では「1984」と算用数字だが、文藝春秋の元論文では漢数字なのでここではそのまま記す。



この論文は、「日本の自殺」という名の通り、高度経済成長を遂げ、
繁栄を謳歌する日本に迫る内部崩壊の危機に警鐘を鳴らしたものであるが、
2012年(当時の民主党政権)の政治状況を鑑み、
2012年3月号の文藝春秋に再掲載されたものである。



内容は、

ローマは外からの攻撃で没落したのではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅した。

というものである。


その理由は、
1.ローマは巨大な富を集中して繁栄を謳歌していた。
2.ローマ帝国各地から人口が流入し、適正規模を越えて膨張した。
3.ローマ市民は1世紀以上にわたるポエニ戦争によって経済的に没落する。
そういう状況で政治家や金持ちに「パン」を要求する。


こうして働かなくても食べられるようになった市民は暇を持て余すようになる。
そうすると政治に口出しするようになるので、目を逸らすためにレジャーを必要とする。

これがサーカスである。



韓国の戦後直後は大変な状況だった。


韓国の場合はローマと違い、国が貧しい。
韓国は戦後、3年間のアメリカ軍政(1945~48)であったが、
実は食料事情は日本の統治時代より悪化していた。


日本の統治時代は1人当たり茶碗で2杯分の食料だったのが、半分になっている。
また1946年にはコレラが発生し、多くの死者が出た。
そのため一時日本から帰った在日コリアンが再度日本に密航する状態にもなっていた。


また政治的混乱は目も当てられなかった。

南と北で別れただけではなく、南でも南朝鮮労働党などの共産勢力が幅を利かせ、
民族主義的な勢力も国内組や海外組の勢力によって勢力争いが活発であった。


その中では暗殺も多く発生していた。

例えば、
宋鎮禹(ソン=ジウ)

呂運亨(ヨ=ウニョン)

金九(キム=グ)


彼ら独立運動家は日本の統治時代は刑務所に入ることはあっても、
朝鮮総督府に殺されることはほとんどなかった(抵抗した場合は除く)。

そのため独立運動家の多くは、
独立が成し遂げられた後で同じ民族によって粛清されているのである。


こういう状況であったため、当時の李承晩政権は国民の目を逸らし
また自らの政治的正統性をアピールする必要もあった。


そのための格好なネタが反日だった。
反日を煽り、苦しい生活から国民の目を逸らさせる必要があったのだ。


国民の目から政治的失態と正統性を逸らす
「サーカス」こそが「反日」だったのである。


結局、李承晩は1960年に国民により失脚した。

しかしその後も反日だけは韓国に根付いていくことになる。


韓国国民の娯楽(サーカス)として。