戦後韓国で、一番最初に日本語の歌を歌った歌手。観客の反応は…。
日本の統治時代は、韓国人にとって本当に悪い時代だったのだろうか?
◎フランク永井の韓国公演
韓国では長い間、日本の歌を歌えなかった。
それは韓国の方針であったのだが、
韓国の大衆の前で初めて、日本語の歌を歌ったのはフランク永井だった。
このあたりの経緯を当時の韓国大使館に勤めていた外交官の町田貢は著書にこう記している。
以下の引用は「ソウルの日本大使館から」町田貢より。
~略~ 日本の歌手が大衆の前で、初めて日本の歌謡曲を日本語で歌ったのは、
フランク永井が最初のはずである。一九六八(昭和四十三)年、
彼が韓国公演にやってきて、ソウル、大邱、釜山の三つの都市で歌った。~略~ 日本語で歌わないというのが許可条件だったから、
ソウルと大邱ではみな英語の歌詞だった。 ~略~ 超満員で立ち見をするのも大変だった。
例によって英語の歌を歌ったが、数曲歌ったあたりで、
「日本の歌を歌え、有楽町で逢いましょうを歌え」と激しい野次が飛び出した。 ~略~
観客はフランク永井に「日本の歌を歌う」ようにリクエストした。
ここには日本文化や日本語に対する敵視は一切ない。
大体「有楽町で逢いましょう」は戦後のヒット曲である。
戦前からの慣れ親しんだ曲なら分かるが、戦後の歌であり、
韓国人の知らない(ことになっている)歌のリクエストをされるとは、
余程日本のヒット曲への憧れや親近感があるのだろう。
「有楽町で逢いましょう」は1957年の歌。
結局、戦後の韓国政府が「日本敵視政策」をしていたことが、
韓国国民に「反日を強いていった」のではないか?
◎戦後初の日本語の歌 そしてアンコール
そして現場の判断で、日本語の歌を歌うことを決断する。
~略~ 場内騒然となっているところに、
フランク永井のヒット曲『有楽町で逢いましょう』の前奏が流れ出した。
マイクを持って歌いながら、フランク永井が舞台の中央に向かって静かに歩き出した。
会場からは割れるような拍手とどよめきが起こった。そして、場内はシーンとなった。
日本の歌は大盛況であった。そして「拍手とどよめき」ののち「シーン」となった。
観客は聞き込んでいたのである。恐らく当分日本の歌手による日本の歌を聞くことができない。
だからみんな一言も聞き漏らさないようにと、静かに聞いていたのであろう。
~略~ 歌い終わって舞台から引っ込もうとすると、
「日本の歌、日本の歌」
と、再び会場は騒然となった。フランク永井が困惑した表情で舞台裏の方を見た金局長が、
やれやれと彼にサインを送った。
こうして、結局『羽田発7時50分』『君恋し』『夜霧の第二国道』など四曲を歌った。
※上記までの引用はP277~278
結局、国民レベルでは反日は多くなかった。
戦後、韓国政府が反日政策をとり、反日を国是としたからである。
もちろんこの当時(1968年)では反日行動が一般化していた。
しかしそれは日本統治時代の個々人の経験に基づくものではない。
実際には個々人の経験では日本との関係は良かったのである。
日本時代を知り、日本人と接した韓国人は親日的だが、
戦後生まれで、日本人と接したことのない若い韓国人は反日的になる。
またこの著書の中では、アジア映画祭が韓国で行われた際、
日本の女優が韓国に行ったが、彼女たちの和服姿は大人気だったとの記述もある。
◎戦後作られた反日感情
町田氏の著書の中には、反日行動もたくさん書かれている。
事実当時(60年代)はもう反日的雰囲気だったのだろう。
それは韓国政府の反日政策の成果であり、元からではなかった。
但し現在では反日教育を受けた世代が国民の大半になったので、事情は違っている。
つまり
「日本の統治時代が悪かった」
→ 「だから怒っている」 ではなく
「日本の統治時代は悪くなかった」
→ 「でも戦後韓国では反日でなければ生きにくい」
→ 「そのうち反日が面白くなってきた」
→ 「だから反日を推進する」 のである。
だから日本が反省しても反日はなくならない。
韓国の反日政策をやめなければ、日韓改善はない。
そのためには嫌韓を利用し、韓国への贖罪意識を解消し、
韓国の反日政策に反発しなければならない。
嫌韓こそが、日韓改善の肝である。