韓国の反日は差別だ!

韓国への反論をするための方法を提供

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「歴史に学べ」と言う、歴史に学ばない人たち!


・「歴史に学べ」と言う人は歴史に学べない
・日本が学ぶのは「日中戦争」と「太平洋戦争」だけ
・韓国は歴史に学べない

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<目 次>

1.日韓の歴史解釈
2.民主主義の原則
3.「歴史に学べ」の意味
4.歴史に学べない横柄な人々
5.個人の経験で判断する愚
6.個人を国に置き換えると
7.韓国は民主国家か?
8.まとめ


日韓関係はいつも歴史問題に翻弄されてきた。
それはどうしてなのか?そしてどうすれば解決するのか?

戦後多くの人たちがこの問題に取り組んできて、なお解決できずにいる。
その理由は日韓の歴史解釈の違いと、韓国側の解釈の強要にある。

そして前提として韓国は、日本にとって民主主義国家ではない



1.日韓の歴史解釈

 日韓関係はずっとギクシャクしている。
その理由はいくつかあるが、歴史問題もその一つということに異論はないだろう。
「教科書問題」「慰安婦問題」「竹島問題」「靖国問題」すべて歴史が関わっている。

「歴史問題」とはいわば歴史解釈の問題である。

歴史的事実をどう捉えるか?どう解釈するか?
それが問われているのだ。


例えば日韓では1910年に「日韓併合」と言うものがあった。
これは当時の大韓帝国が日本に併合され、
国を無くしてしまったことを表している。


この事実に反対の論者はいない
日本でも韓国でも「日韓併合」という事実に争いはないのだ。

しかし解釈には違いがある。

日韓併合と言う事実に関して、
日本は「合法に結ばれた」と主張しているのに対して、
韓国は脅迫されたものであり「無効である」と主張している。


つまり日本は1910年当時、
併合条約が結ばれたのは「合法」という解釈なのだが、
韓国では暴力的に併合されたので「無効」であるという解釈だ。

実際に1965年の日韓基本条約を締結するに際して、

「もはや無効」と記した。


つまり日本側は「1965年時点には無効になっている」という解釈ができるし、
韓国側は「最初から無効である」と解釈ができる。

こういう玉虫色な解釈ができる条文になっているのだ。


これは両国の解釈が違うのだから、
外交テクニックとしてこのような手段を使っている。
その前提として両国とも都合の良い解釈を使うという暗黙の了解がある。


しかし実際には韓国側が、日本に自国の解釈を押し付けることが多い。
例えば日本が合法的に併合したと言うと、韓国は「妄言」と言う。
これは必ず言うのだ。政府もメディアも国民も。


このように解釈の違いが後々のトラブルになる。

であるが、先に書いたようにそこに暗黙の了解があれば問題はない。
しかし暗黙の了解がなく、もしくはあっても一方的に破棄する場合、
両国間で深刻なトラブルになる。

そしてその際に日韓間で起きるのが、解釈の強要である。
先の例で言うと
日韓併合は最初から無効と認めろ」
と要求する韓国政府がそうだ。
これは日韓間で言うと韓国が日本に対して一方的に押し付ける。
逆はないのだ。

日韓間の歴史問題とはそのような解釈の違いによる無理解と、
それに基づく解釈の強要によって起こっている。

 韓国の無理解による強要

 これこそが日韓関係の歴史解釈問題の本質に他ならない。




2.民主主義の原則

日本には中国との間でも歴史問題があるが、この際は無視する。
故に当事者としては「日本」と「韓国」を前提とする。


ところで日本も韓国も民主国家である。

民主国家とは「国民が主権者」である。
主権者とは、いわば最終決定者であり、 日本も韓国も国民の名の下に最終決定する。


例えば両国とも(もしくは他の民主主義国も)条約を
締結するにあたって「批准」という行為をする。
これは国民に選ばれた政府が他の政府と合意して条約を締結しても、
最終的に国民の了承を得なければならないということだ。

しかし国民の最終決定といっても、いちいち国民投票にかける訳にはいかない。
そのため国民の代表者を決めて、そこで審議をし、議決をして決定する。

これが国会で、そこで国会議員が決定することが、国民が決定したことになる。
これが民主主義国の通常のやり方である。

その民主主義を国家として機能させるためには
個々人の権利が認められなければならない。
個々人が自由に国民の代表者を選べなければ、民主主義は形骸化する。
そのために民主主義には色々な原則がある。

基本的人権の尊重」であるとか、
「思想信条の自由」とか、
「学問の自由」とか。


 その中で言論の自由というものがある。

言論の自由」とは自由に意見が言えることであり、
必ずしも無制限に認められる訳ではない(例えばヘイトなど)が、
基本的に制限には消極的である。
原則としては「言論の自由」は認められるべきであり、
例外的に制限されるべき。そういう前提がある。

しかしそれは言論に対して無批判であることを意味しない

言論が認められるということは、それに反対することも認められなければならない。
ある意見を言うことが「言論の自由」なら、その意見に反対することも、また「言論の自由」なのだ。

意見に反対することは言論弾圧ではない

つまり民主国家とは「言論の自由」が認められなければならないし、
そのためには反対意見も認められなければならない。
自分の意見と違うことをもってその意見を排除することは民主国家とは言えない。
賛成意見と同様に、反対意見に関しても敬意をもって対応しなくてはならないのだ。

つまり韓国政府も自国の意見と違うことだけをもって、
それを排除し、弾圧してはいけない。
ましてや意見が違うというだけで、相手との話し合いを拒否する態度ではならない。


当然歴史の解釈とは「一つの意見」である。事実は動かせないし、動かしてはならない。
先の例で言うと「日本が大韓帝国を併合した」という事実は否定できない。
しかしそれが強要であるか否か、また合法であるか否かは争いがあるのだ。

ある人の意見は「合法」だし、ある人の意見は「不法」である。
その根拠を問い詰めて、根拠に基づき反論する。意見の違い、解釈の違いはあって良い。
その上で相手に敬意を表しながら、議論で解決しなくてはならない。

民主国家では歴史の解釈が違うこと、
つまり意見が違うことをもって排除してはならないのだ。




3.「歴史に学べ」の意味

 「歴史に学べ」という言葉はビスマルクに言葉である。

ビスマルクはドイツの一地方だったプロイセンの宰相である。
彼が使っていた言葉だ。

因みにこの歴史の学べと言う言葉は複数の人が使っている。
西洋人と同様、中国人も使用しているが、日本で言われるのはビスマルクの言葉だ。

そのビスマルクは、実際には「歴史に学べ」と言っているわけではない。
それはこのような意味である。以下に引用する。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
愚者は自分の経験が絶対に正しいと信じている。
私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。

ビスマルクは「他人の経験」から学ぶと言っているのであって、
「歴史に学ぶ」とは言っていない。そういう意味では、違って伝わっている。


しかし「歴史」=「他人の経験」であると解釈すると、それほど意味は違わない。
歴史とは人が作るものであり、「他人の経験の集合体が歴史」と解釈できる。
故に他人の経験(特に失敗)から学ぶことは、「歴史に学ぶ」のと同義語である。


それよりも重要なことはビスマルクの言葉の本質である。

つまりビスマルクは自分経験や失敗よりも、他人の経験や失敗を重視する。
自分より他人の方が多くの経験をしている。
その人たちの経験や失敗に学べば、自分の失敗を未然に防ぐことができる。
他方、自分の経験を絶対視し、他人から学ばない姿勢では
せっかく参考にできる失敗があるのに見過ごしてしまう。
そのため自分も失敗する可能性が高まる。

自分の経験を絶対視し、他人から学ばない人は「愚か者である」と言っているのだ。

これこそがビスマルクの言葉の肝である。

そう理解すると、日本で「歴史に学べ」という人が、いかに愚か者であるかわかる。




4.歴史に学ばない愚か者

よく大上段に振りかざして、「歴史に学べ」と述べている人がいる。
そういう人に限って先に書いた歴史に学んでいるのではなく、
経験を絶対視する愚か者なのだ。

大体そういう人がいう「歴史」とは「太平洋戦争」や「日中戦争」のことである。
そして結論は決まっている。

 日本が悪かった!
これが歴史を学んだ正しい人なのだ。

歴史を学ぶと必ずこういう意見になる、ならなければおかしい

と考えるのだ。

こういう人によると

「日本は良いこともやった」

という人は歴史に学んでいない人になる。


この考えは少し考えるとおかしいことが分かる。


歴史を真摯に学んだ結果、

日本は韓国に良いことをやった。

というのはあってしかるべきなのである。


しかしこれはダメなのだ。

彼らの中では、日本が悪いことをやったのは自明のことだから、
真摯に歴史を見れば「日本が悪い」という結論にしかならないのである。

彼らは結論(=日本が悪い)が決まっており、
それに合わない人は歴史に学ばない人なのだ。
プロセスはどうでもいい。最後に「日本が悪いですね」と言うと、

 この人は歴史を真摯に反省した人。

 であり、

「日本は良いこと“も”やった」
(つまり悪いこともやったことは前提で、良いこともやったという意味)という人は

 この人は歴史を真摯に反省していない人

なのだ。

そう考える彼らは歴史に学んでいるのではなく、
自分の経験を絶対視している愚か者なのだ。




5.個人の経験で判断する愚

毎年の恒例行事になったが、8月15日に近づくと戦争中の被災者が出てきて、
「こんな大変なことがあった」「こんな苦しい思いをした」と訴える映像を流す。

これらを見ていると、可哀そうだと思うし、大変だと思う。
私はこんな経験はないので身をつまされる思いがする。

しかしドライに言ってしまえば、これは一つの経験に過ぎない。

歴史家で作家の保坂正康氏によると、

「日本人が空襲を受け、被害を受けたのは終戦の約1年前からで、
それまでは被害を受けなかったので、むしろ積極的に軍を応援していた」

と主張している。


つまりこういう被害者も“勝っている当時”は、
全く別のことを言っていた可能性があるのだ。
戦争中に積極的に国旗を振って、兵隊さんを励ましていた愛国少年が、
戦後になると反戦青年になり、「9条を守れ」という。

ただ当時の風潮に乗っかかって「戦争遂行」や「戦争反対」に迎合していた人が、
どうして「歴史に学べ」といえるのか?
そしてこのような被災者の意見は参考になるのだろうか?


さらに気を付けなければならないのは、
「可哀そうと思うのは感情である」ということだ。

政治的な行動をとる時(つまり法案審議等)には、
感情ではなく理性で行動しなければならない。
そして理性的行動とは「好き嫌い」で判断するのではなく、
「良いか?悪いか?」で判断すべきことなのだ。

政治家の好きか嫌いかではなく、自分が嫌いでも良い政治家はいる。
また自分は好きだが、全然ダメな政治家もいる。
自分の好きな政治家でも彼が極めてダメな政治家なら、
日本国民のためにはならない。
しかしその逆であれば国民のためになるのだ。

そういうことなら自分の好き嫌いという感情を抑えて
政治家として良いか悪いかという観点から物事を判断するべきだ。

つまり「可哀そう」という個人の感情を優先して
政治を判断することは危険であり、思考の停止につながる。

例えば、先の例でいえば、
子供の頃、戦争被害に遭ったお年寄りの言葉に同情して、感情的になり、
お年寄りの言葉を盲目的に信じてはいけないのだ。
感情的になる気持ちはどうしようもないが、
それを抑えてそれはそれとして判断する必要がある。
 

「私はこんな悲惨な目にあった」
→ 「だから戦争はダメ」 
→ 「だから9条改正はダメ」

というお年寄りの訴えに思考の停止になってはいけない


それとこれとは話は別であり、日本の安全保障環境が悪くなることは、
→むしろ戦争を誘発する。
→故に日米同盟強化のために、
自衛隊憲法に位置付けることは戦争抑止になる。
→ 故に憲法改正は賛成である。

と主張しなければならない(もちろんこれも一つの意見だ)。




6.個人を国に置き換えると

 先程のビスマルクの言葉は

「自分の経験を絶対視し、
他人の経験に学ばない人は愚かである」

と言っているのであるが、

これを国に置き換えると以下のように主張することができる。

自国の、特に特定の歴史を絶対視し、
他国の歴史に学ばないのは愚かな国である。

そう…歴史に学べというと「日中戦争」と「太平洋戦争」だけを教訓にし、
結論も「日本は悪かった」しか許さない人びとは、愚か者なのだ。
歴史は色々ある。日本の歴史だけではなく、世界中に参考事例はあるのだ。
それを約70年前の日本の歴史のみを重視して、
それ以外に歴史を軽視、または無視するのは歴史に学ぶ態度ではない。

もちろん70年前の歴史の教訓は大いに参考にすべきだが、
それ以前にも、そしてそれ以後にも参考にすべき歴史はたくさんある。

戦後、朝鮮半島で何が起きたのか?アメリカとベトナムとは?
中国とベトナムとは?ウクライナはロシアを侵略したのか?
ユーゴスラビアは?ルワンダは?

学ぶべき他国の経験は、戦後でも現代でもたくさんある。
それを無視して70年前の自国の特定の経験だけを絶対視することは、
真正の愚か者と言わざるを得ない。

ましてやこれを日本国民が自国への警鐘として参考にするのならまだしも、
韓国のような他国が、日本の特定の歴史を特定の見解だけに基づいて解釈し、
その他の解釈を無視し、日本相手に強要するとは言語道断である。



7.韓国は民主国家か?

こう考えると韓国が民主国家かどうか疑わしくなる。
韓国は国民が選んだ大統領が君臨し、5年に1度の選挙がある。
それに4年に一度の国会議員選挙もある。
韓国大統領は国民の支持を気にして、日本の政権同様、支持率調査の数値に一喜一憂する。

国民の顔色を伺う韓国政府
こういう状況を見ると民主国家と言えるだろう。


しかし歴史問題で、日本の主張を全く受け入れず、
自国の主張を繰り返すだけの国家が本当に民主国家と言えるのだろうか

韓国は歴史問題、特に日本が絡む歴史問題では途端に全体主義になる。


実は矛盾するかもしれないが、民主主義国家でありながらも、全体主義の国家はある。
民主主義国家とは「国民主権の国」であり、国民の意見が政治に反映する国である。
 
つまり国民がある方針を求め、その方針に則って政治家が選ばれて、
その方針で政治を行うことは民主国家だ。

しかし民主主義が暴走することもある。
それは民主主義を構成するのが人間(国民)だからだ。
人間の本性に基づき、非人道的な政策を行う場合、民主主義的な決定でありながら
国民が支持する政府ができることがあり得る。


 例えばナチスドイツなどがそうだ。

ナチスは選挙で上がって来た。彼らは国民に支持されたのだ。
そして彼らは民主主義を否定しながらも民主主義的な手法で議会第一党になった。

※ここで誤解されている向きがあるが、
ナチスは必ずしも民主主義的な手法のみで政権を獲得したのではない。
事実、ナチスは選挙で一度たりとも過半数をとらなかった

ナチスヒトラーが首相になったのが1933年。
その前年に選挙で第一党は獲得していたが、それでも過半数には遠く及ばなかった。
それどころか首相を獲得した後の1933年3月の選挙でも約44%しか獲得できず、
647議席中288議席獲得だった。

だから選挙のみで独裁体制を作った訳ではないが、
選挙で第一党をとったのは事実なので、上記のように書いた。


この当時、ナチスが煽っていたのがユダヤ人に対する差別意識だった。
当時は第一次大戦への批判があり、ドイツが悲惨な目に遭ったのは
第一次大戦に負けたからであり、それはユダヤ人と共産主義者
背後から攻撃したからだ(背後の一撃論)という考えがあった。

この「背後の一撃論」は必ずしもヒトラーが唱えたものではなく、
第一次大戦に敗れた軍人が述べたものだが、そういうことを信じられる土壌があった。
これにより、ユダヤ人への憎悪を燃やし、ドイツ国民にユダヤ人差別の正統性を与えた。

これに積極的に迎合したのがドイツ人だ。

ナチスの擁護をする気は毛頭ないが、ユダヤ人差別自体はヨーロッパ各国にあった。
つまり彼らはユダヤ人差別に反応しやすいのだ。それ故にユダヤ人排除を訴えると、
ドイツ国民が反応する土壌があった。

ナチスユダヤ人差別を利用し、ドイツ人はユダヤ人排除を望んだ。
ここに国民が求め、民主的な全体主義国家が生まれる。
ユダヤ人排除という差別意識の統一された全体主義国家は成立したのだ。


韓国は反日を国是の、反日全体主義国家だ。

反日を訴えることを正当化し、反日は正しいと主張し、
日本を攻撃することで韓国国民を糾合する。
これが差別を媒介とした民主主義的全体主義国家だ。
基本的には民主主義的であり、多様な意見を尊重しつつも、
国家の外に敵を作り、国民全体で反日を煽り立てる体制が成立した。

そして全体主義国家は他の価値観を認めない。
日本絡みを歴史問題に絡めて、何でも日本に反対する。
一部の親日的発言を国民が全体で封殺し、異論を挟めない。
韓国では親日発言ができないのだ。
これは日本絡みなら、異論を容認しないことを意味する。
そしてそれは民主主義的に、国民の名のもとに正当化する。

韓国の反日全体主義は、韓国国内で支持を集めるために特定の国を敵視する。
それは本来やってはいけないが、韓国では効果があるので利用されているのだ。

しかし考えてもらいたい。
自分と異なる意見も容認する民主国家と言えるのだろうか?
先に書いたように民主国家は寛容の精神が必要だ。
そのためには多様な意見を容認しなければならない。

もちろん最終的には多数決をとり、政策を決定しなければならない。
そして民主国家なら多数意見が通るのだろう。
しかしそれは少数意見を封殺することではない

少数意見にも発言させなければならないのだ。

しかし民主主義的反日全体主義国家の韓国では、国民に反日をいう差別を煽り、
それにより権力の求心力を維持する。また韓国国民は反日という差別に
「楽しさ」「面白さ」を見出し、反日行動に積極的に迎合しようとする。

 それにより少数意見を封殺するのだ。

韓国が民主国家であると証明するのなら、多様性を容認しなければならない
もちろん多数決で政策を決定するので、少数意見を採用する必要はないが、
少数意見も言えなければならない。
ましてや親日的発言をする評論家や政治家を集中的に攻撃して、
排除することなどやってはいけないのだ。

そして違う意見も尊重しなければならない。


韓国の態度は民主主義国家ではなく、全体主義国家だ。
そして歴史論争をするにも歴史を重視する態度ではなく、歴史を蔑ろにする態度だ。
日本と韓国の歴史に対するスタンスが違うのは分かるが、
だからと言って排除することは適切ではない

自国の歴史を押し付けて、日本に強要し、
日本の歴史的スタンスを理解しようとしない韓国は民主主義国家と言えるのだろうか





8.まとめ

まとめると以下のようになる。

1.歴史に学べという人を信じるな。
歴史に学べという人は、自分は学んでいない。
なぜなら自分が歴史を知っていると思い上っているから。
思い上がっている人は謙虚に学ぶことはできない。


2.被害者の意見に思考の停止をするな
戦争被害者の意見は貴重ではあるが、一つの経験に過ぎない。
その経験を絶対視して、感情的になり、思考の停止になってはいけない。
理性的な判断を下すべきである。


3.自国の特定の歴史を絶対視するのは愚か者である。
ビスマルクの言葉を国に置き換えると、自国の経験を絶対視し、
他国の経験から学ばないものは愚か者である。


4.民主主義には寛容の精神が必要だ。
 違う意見にも少数意見にも配慮すべき
 多数決の原理は少数意見の排除ではない


5.韓国は民主国家ではない。
民主国家なら他国の言い分に耳を傾けるべきだ。
自国の歴史と違うからと排除するのではなく、
違う意見も尊重しなければならない。
韓国は民主主義的反日全体主義国家だ



 我々は賢者ではないかもしれないが、愚者にはなりたくないものだ。