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1939年の福岡県検察資料に記されたコリアンの実態


1939年 福岡県の検察会議
当時のコリアンの状況について話している
会議の抜粋を提示する

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1939年福岡県で行われた検察会議資料

まだ太平洋戦争も始まっていない1939年(昭和14年)。
福岡地方裁判所である会議が行われた。

目的は、朝鮮人と日本人のトラブルを無くすため、
うまく両者が協和している箇所の責任者を呼んで、
そのケーススタディヒアリングすることだった。

会議には福岡県の特高警察や県の職員、工場、農村、
小学校の校長などが参加した。
この参加者は福岡では比較的、朝鮮人と関係の深い人たちで、
特に民間人は日鮮の融和ができている箇所の人たちだった。

会議は朝の10時半から夕方4時半まで、休憩を挟んで行われた。
その中には当時の日本にいる朝鮮人の言動が、
日本側関係者の証言として取り上げられており、非常に興味深い。

特に民間人は日常から朝鮮人と接しているので、
参考になる話がたくさん含まれている。


先に福岡県のことを書くと福岡県は朝鮮半島から来日する朝鮮人の入口で、
1939年当時の朝鮮人人口は60,105名。全国で5番目に多い県だった。

そこでは多くの朝鮮人と日本人が共生しており、成功例も多々あった

この中には現在では意外な話も多々ある。
現在の日韓関係を鑑みるに、当時のことを知っておくことは有益だろう。
そこで当時の検察資料を抜粋して提供する。

基本的に報告書の抜粋を重視するが、
説明が必要な場合はコメントを付け加える。



会議の日時、場所及び出席者

日 時  昭和十四年三月二十三日 午前十時三十分~午後四時三十分
会 場  福岡地方裁判所
出席者  
福岡県特高課長       後藤吉五郎
同   警 部       河野小次郎
同   警部補       西依吉造
八幡警察署特高係巡査部長  田嶋 廿
福岡県社会課        熊谷治生
福岡県社会課        熊谷治生
県社会事業協会主事     進藤政太郎
八幡協和会館長       木戸重光
麻生商店労務係長      大森林太郎
八幡製鉄所
構内運搬請負業共同組合   山内鹿郎
若松仲仕小頭組合長     玉井金五郎
遠賀郡農会主事       向防熊寿
糸島郡古物商組合長     吉積末吉
西小倉小学校        清川守雄
貝島鉱業所大ノ浦出張所   羽田野重徳
産業セメント鉄道株式会社  岩代実政

福岡地方裁判所  所長   大原利文
同        部長   衛藤 顕
同        部長   星子広記
同        判事   宮崎隆蔵
同        判事   小野謙次郎
同        判事   森 静雄
同        判事   相島一之
同        判事   後藤師郎
同        判事   青木亮忠
同        判事   江崎太郎
同        判事   仁分百合人
同        判事   奥野義兼
同        判事   吉田信孝
同        判事   鈴木重光
同      予備判事   石井正生

福岡地方裁判所検事局
        検事正   水田正之
同      次席検事   大島染吉
同        検事   森山 良
同        検事   古賀俊郎         
同        検事   古賀俊郎  
同        検事   棚橋靏一
同      予備検事   富岡 誠

福岡区裁判所 監督判事   水町新三
         判事   桑原国朝
         判事   鈴木 泰
         判事   大沢龍夫
       予備判事   佐藤 秀

福岡区裁判所検事局
       上席検事   松井善太郎
         検事   竹内次郎
         検事   尾上実男


福岡県下在住朝鮮人の動向に就て

文字の強調および赤字は筆者
旧仮名遣いは現代仮名遣いに修正する場合がある。
記事の縦書きは横書きに変換している。
長い文章は見やすくするため、適宜句読点を加え、改行している。
見やすくするため、漢数字を算用数字に変更する場合がある。




福岡県のコリアンの状況及び性質

後藤氏
 本件に来住して居りますものは昭和十三年末に六万百五名で、
全国の第五位と云ふ状況であります。
昭和十二年末の本県に於ける在住来県人の数は五〇,五六五名でありまして、
昭和十三年末の六〇,一〇五名と比べますと一年間に一万と云ふ増加を示して居るのであります。

 そして之等在住者の多くは、北九州の労働都市並に筑豊鉱山地区に居住して居ります。
職業の内最も多いのは鉱抗夫、仲仕、沖仲仕であります。
そして殆んど全部が下級労働に従事して居るのでありますが、
大体朝鮮人本質的に移動性を持って居り
一定の所に永く居住し一定の職業に従事することは少いのであります。

 私共は不思議に思ふのでありますが、全く経済観念を抜に致しまして、
例へば極端な例を取りますと、本県より北海道の方が一日五銭高いと聞きますと、
家族を連れて北海道迄も歩いて行くと云ふ様な点が可成りありまして、
或は単に労働賃金の高低だけでなく或る山は働きいい、或山は働き悪い、
或は遂道工事に致しますと危険性が多い、と云ふ様な事を考慮に入れるのであります。

 斯様に非常によく稼働する性質が多いのであります。
で現在厚生省を中心に致しまして内務省警保局が協力し、
朝鮮人の内地人化と云ふ所謂協和運動を進めて居りますが、之を進めて行く上に、
斯様に朝鮮人の移動性の多いと云ふことが非常に障害になって居るのであります。

当時の在日コリアンの傾向

木戸氏
 概括的に申しますと、最近は非常に良い傾向に向って居る様に承って居ります。
又大したて困ると云ふ者はそうない様に観察して居ります<<。

大森氏
 今八幡の御方の御話がありましたが、私の方では全く反対の見方を持って居ります。
 ~略~
  之は本日の御説明になった御趣旨から見ましても、根本的に考へ直す必要があると思ひます。
今地方の実情から見ますと非常に宜しくない、益々悪くなりつつある許りであって、
今の儘で行ったら一層悪くなると云ふ事が考へられるのであります。


1939年当時の在日コリアンの傾向は割れている
八幡協和会の木戸氏は「良い傾向に向って居る」と述べているが、
商店会の大森氏は「全く反対の見方」と述べている。
箇所によって違いがある様だ。





コリアンの稼働状況

後藤氏
 稼働状況でありますが、一般的に見まして内地人に比較して、
勤労奉仕と云ふ観念が欠けて居りまして、作業効率が非常に悪いのであります。

 大体之は朝鮮に於ける昔の長い間の圧制政の結果だと聞き及んで居るのでありますが、
朝鮮人が少しでも金を貯めると政府に取上げられると云ふ圧制政が続いた結果、
一日働いて三日食へるだけの収入があれば後の
二日は遊んで暮らすと云ふ様な風習が多いのであります。

ここではよく働くかどうかを「稼働状況」という言葉で表現している。
その稼働状況から見るとコリアンは「勤勉さに欠ける」と評価されている。また

 即ち港では、船が入りますと直ぐ荷揚げしなければならず、
非常に急ぐものですから其の足下を見透し、五円呉れとか十円呉れとか云って働かないのであります。
仕方がないので之をやりますと、金が入ったと云ふので当分は働かないと云ふ
拙い結果が生じているのであります。此の稼働率を上げると云ふ事は大きな問題であります。


などと、相手の足元を見て「サボタージュをする」という傾向もある様だ。


因みに賃金(賃銀)に関しては、
日本人とコリアンではあまり変わりがないようだ。

水田検事正
 そうすると労働者階級に於ては
内地人と朝鮮人との間に賃銀の高下はありませんか?

山内氏
 大体に於てそう云ふことはありません
仕事の差はありますが人種別の差はして居りません。

一方古物商では、コリアンはよく働くという評価もある。

吉積氏
 私は古物商組合の会長を五、六年やって居りますが、
鮮人は非常に良い成績を挙げて居ります
と云ふのは今の時勢が廃物を回収しなければならないと云ふ事からして、
回収致しますと利益が上がるし一方軍需の方面にも都合が良いと云ふことで
仲々良く働きます。

住宅問題!

河野氏
 鮮人の住宅問題は非常に大きな問題として五、六年前迄は
極めて重要視されて居ったのでありますが、
最近鮮人の生活状態の好転するにつれて幾分愁眉を開くことが
出来る様になった様であります。

 鮮人で自分の住家を持って居るものは殆んどいないと云っていい位で、
大部分は借家に入って居るのであります。
借家に入る時など家主は鮮人と云へば頭から問題にせず、
如何に徳望のある人でも鮮人と云ふ丈で一言の下にはねつけられるるのだそうであります。

 で内地の人に頼んで家を借りて貰ひ、入って居る様であります。
そうした関係から借入れの手段其のものから借家争議が起きるのであります。

 次に小さい家賃十円位の家に三家族も四家族も入るし、
家主には何等の応答もしない為に、家主には嫌はれる。
家主に嫌はれる丈でなく、近所近辺に迷惑を掛ける。品物が無くなる。
衛生状態が悪くなる、其の結果、家賃が下ると云った様な状態であったのでありますが、
最近は非常に良くなってそう云ふ傾向が少くなった様であります。


コリアン家を貸すと、「汚くしたり」「大勢で住んだり」
「金銭上のトラブル」になるケースが多く、家主は貸したがらなかった。
これを借家問題と言って、当時の大きな社会問題となっていた。



食事の問題
吉積氏
 処が朝鮮人としては大蒜などは一種の薬として食って居る様であります。
大蒜をやめよと云ふことは、極端に云へば、
病人に薬をやめよと云ふことになりはせぬでせうか?

大森氏
 向ふは非常な粗食です。
私の行って居りました処は、江原道の金剛山の下の処です。
行きました当時は驚いたのですが、粟食です。それも粟だけです。
米は少しもない。それに赤い胡椒と味噌が副産物です。
刺激がなければ食欲がつかぬ訳です。

 従って栄養物がないから大蒜などに依ってそれを補って行かねばなりません
粗食をする為に止むを得ず、ああ云ふ結果になったのじゃないかと思ひます。
又大根なども山の中に出来る小さいので味も何もない、
少しも甘くないものです。之に大蒜などを入れて味をつける訳です。


 コリアンがよく食べる大蒜などは、
朝鮮が粗食だったので発達したと考えて居ります。
これも面白いモノの見方です。なおこの大蒜食は、
当時の日本でコリアンが嫌われる理由となっていました。



教育問題!
清川氏
さう云ふ様に向学心は非常に強いのでありまして、
私も市に来て、朝鮮の人達のさう云ふ気持に驚いた訳であります。
男子も女子もよく就学させます。
小学校はさう云ふ風でありますが、中等学校に上げる者は未だ少い様です。
けれ共段々と多くなる様な状態に向って居る様であります。

それから子供の成績でありますが、内地の子供と少しも劣らない。
言語の不備もあるのに先づ中位には行く、朝鮮の子供は成績は悪くない。
中には学校で一、二を争ふ様な者もありますから、
どの先生も朝鮮の子供の成績は悪くないと申します。


 コリアンの向学心は高いし、成績も悪くないが、
これまで教育を受けることが出来なかったので、伸びしろがあると考えているようだ。




コリアンの宗教!

大森氏
 私の体験から申しますと、殆んど無宗教と云ふても過言ではないかと思ひます。
私はあちらに居ります時は、金剛山のユーケン寺と云ふお寺を借りて、
お寺の庫裡に数か月間居住して居ったのでありますが、其の時つくづく感じましたのは、
あちらでは宗教が極度に迫害されて坊さんは段々金剛山の麓に追ひ込められたのでありまして、
例へば寺院でお祭りの様なことをやってもお参りに来るのではなく見物に来る。

 皆真宗ばかりですが、お寺と云ふものは、皆山の中などに追ひ込められて居ります。
殆んど布教などと云ふことはなく、只人が死んだ時だけ形式的に葬式をやると云った状態です。
さう云う訳でありますから、私の処に居ります鮮人も二千何百人の内、
宗教を持って居る者は殆んど居りません

このようにコリアンは無宗教であると考えられている。



結婚問題!

進藤氏
 現在に於きましては或る特殊の部門に行はれて居る程度で、
先決問題は矢張り或る程度朝鮮人の文化の程度と云ふ様なものを引上げて行く
と云ふことが先決問題ではないかと思ひます。

 それは内地人同志の結婚にしても、
教育の程度或は富の程度が或る程度均衡が取れて居ると云ふことが必要であります。
まして朝鮮人と内地人が結婚すると云ふことは、それ以上困難な問題ではないかと思ひます。

吉積氏
 内地人を家内に持つと云ふことを誇りにして居る様に思ひます。
私の処に一人内地人の女を妻にして居る者が居りますが、
酒でも飲んだ時には、そのことを話して自慢の一つにして居る様です。

朝鮮人」という言葉に就いて

羽田野氏
 内地同化の問題に就きまして、
幹部の者に内地人が使ふ言葉で一番癪に障る言葉は何かと聞いた処が、
朝鮮人」「半島人」と云はれるのが一番癪に障ると云ふ。
では一体どう云へばいいかと云へば、その間に「の」を入れればいい。

 内地人でも朝鮮人でも同じ陛下の赤子である。
我々を呼ぶのに何か異国人の様に「朝鮮人」「半島人」と云はれることは一番癪に障る。
この間に「の」と云ふ字を入れて「朝鮮の人」「半島の人」と云って呉れれば
いい感じを持つと云ふことを聞かされたのであります。
そこで我々の部落では「朝鮮の人」「半島の人」と呼ぶことにして居ります。
それで非常に喜ばれて居ります。



社会運動の傾向について

後藤氏
 本県に居ります朝鮮人は労働者が多い結果と致しまして、
一般に思想的にも頭脳の程度が低く、従って思想運動、社会運動と言ふが如きものは
殆んどないだらうと思ひます。
極めて例外的に民族運動などに引っ掛った者が無きにしも非らずでありますが、
一般には殆んど問題になる程度のものはありません。
其の他は朝鮮人の起す労働争議がチョイチョイありまして、
一昨年が三件、昨年が七件と言ふことに名て居ります。

河野氏
 県下で三十余名です。併し最近は思想運動は殆んどなくなった様です。
一般に時局に対する積極的な参加と言ふ様な、例へば国防献金などが非常に起って、
大体今回の事変を契機として、その思想も相当好転したと言ふことが言へると思ひます。

戦争協力について

後藤氏
話は少し脱線致しますけれ共、私の前任地でありました長野県の福島地方でありますが、
国防献金を募りました処内地人は一戸平均十銭とか二十銭であったのに、
朝鮮人は一戸平均一円位になってゐる。
或は高等官の人で五十銭出して居た処が、後で朝鮮人献金が一円、二円、
大きいのになると五円、十円と言ふのがあって
恥かしい思ひがしたと言ふことを言って居たのを聞きました。

それから志願兵制度が施かれましたことは県内在住朝鮮人に非常な感激を与へまして、
同化政策上非常にいい結果を斉して居る様であります。
本県からは十六名応募して其の内一名は採用されて居りますが、
入営の時など各地から鮮人が集って非常に盛大な見送り振りだったと承って居ります。




政治運動について

西依氏
 県下一般に於ける政治運動と申しましても、
先程からお話がありました様に本県在住の鮮人の殆んど全部が労働者でありまして、
而も無智文盲の者が多いような関係から、
政治問題に対する批判力と言ふものは殆んどないのであります
従って政治運動と言ふ様なものは従来あまり見られなかったのであります。

 処が昭和七年に朴春琴代議士が当選しましたのが、
あれが非常に県下在住の鮮人に刺激を与へまして、
そうして矢張り朝鮮人も内地に来れば選挙権が与へられて居るのだから、
之を利用して朝鮮人の生活の向上を図らねばならぬと言ふことから、
政治運動に乗り出す者が非常に多くなって参ったのであります。

 其の結果、昭和八年の四月本県の全県下に於ける
町村会議員の選挙が施行せられましたのに、
町村別にハッキリ記憶致しませんが、全部で十六名の立候補を出して居ります。
そしてその内三名が当選したのであります。斯う言ふ本県下の事実が出ました結果、
一般鮮人の政治に対する理解或は時事問題と言ふものを
非常に重要視すると云った様な結果になりました。


内鮮融和について

清川氏
 私の処の学校で、県の社会事業会の御指定で
五十名六十名の男女を集めて夜間学校をやったのであります。
私が校長である関係上三つの学校から各一名づつ三人の先生を
選抜しましてやって貰ったのですが、
其の三人が揃ひも揃って熱心な人でありました。

 朝鮮の事情もよく知らない人でありましたが、
三時間づつ二十六日間熱心に日本人らしい様に
協和同化せしむる様にやったのでありますが、
別かれる時など女子の先生にはすがり合って泣いたそうです

 又男子の先生も之ほど意義のある仕事をしたことはないと云って居りました。
さう云ふ点から考へましても、我々指導者の立場に居る者は彼等の短所欠点を見ず、
大きい広い心で指導せねばならぬのじゃないかと私共は教育者として考へるのであります。
斯う云ふことから考へましても、最も大切なことは差別感をなくして
彼等を指導して行くと云ふことは、廻り遠いことであると云ふ様なことを感じました。

羽田野氏
 其の結果非常にいい成績を挙げたのでありますが、
それと同時に指導者が朝鮮から参りました者が大分居りまして
朝鮮の一角の部落を其のままこちらに移した様な実情になって居ります。
其の上に其の人が七、八年指導して参った為に、
其の人に対する敬慕の念と云ふものは非常に深いものであります。

 そして其の人が退職する時など何とかして恩に報ひ度いと云ふので、
其の人に対する彰徳碑を建設することになったのであります。
其の建設に就きましては官庁の許可が要る為に嘆願書を出した処、
県では最初生存者に対する彰徳碑の建設は出来ないと云ふことだったのでありますが、
是非と云ふ一同の願ひに依って之は内鮮融和事業に取って最も良い事であるからと云ふので、
特別に許可して頂いたのであります。

 
以上です。御参考までに!