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「歴史問題」で、日韓の話が合わないその理由とは・・・!


・「歴史に学べ」日本と韓国の違い
・日本と韓国は歴史の考え方が違う
・日韓の歴史論争など不毛

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1.歴史に学べ

 前回「歴史に学べ」ということを検証した。
「歴史に学べ」とはプロイセンの宰相ビスマルクの言葉であり、
彼自身は「歴史に学べ」とは言っていない。

前回の記事に関してはこちらを参照してください。


彼は「他人の経験から学べ」と言っているのだ。
それは自分の経験を絶対視することなく、より多くの他人の経験から、
特に他人の失敗から学ぶことで、将来の失敗を防ぐことができる。


自分の経験より他人の方がたくさん経験している。
たくさん失敗している。その他人の経験を学ぶことで、
自分は失敗を未然に防ぐことができるのだ。


まあ筆者は他人の経験の集合体が「歴史」だと思っているので、
「他人の経験」=「歴史」と読み替えても問題ないだろう。



つまり巷間言われているように
「賢者は歴史(他人の経験)に学ぶ。
愚者は経験に学ぶ」
ということだ。


そして日本で歴史に学べという多くの人が、
実は歴史に学んでおらず、自分の経験のみを重視していること、
そして最初から「日本が悪かった」という結論ができていることを書いた。


そして韓国でも同様であることを書いた。





なぜそうなるのかというと、彼らは傲慢だからだ。


「自分たちは絶対に間違っていない」「自分たちこそ正しい」


こういう根拠不明の思い込みがあるから、
上から目線で他人に「歴史に学べ」などと言えるのである。


その実、自分は決して歴史(つまり他人の経験)から学ばず、
自分の経験を絶対視することになる。



こういう話を聞いたことはないだろうか?

戦争は絶対いけない。
昔、わしは子供のころ空襲を受けて、友人も大勢亡くした。
腹が減っても食べ物もなく、家は焼かれ、着る物もなかった。
こういう悲劇は二度と繰り返してはいけない。
だから戦争を無くすためにも憲法9条は守らなければならないのだ。

戦争を無くすことは賛成だが、
それがどうして憲法9条と結びつくのか?その根拠となっているのが、
子供のころ戦争で悲惨な思いをしたということだ。



しかしそれは9条とは結び付かない



9条と結びつくのは「9条があれば戦争が起きない」という信念なのだ。
その信念が教育によるものか?周りの影響によるものかは人それぞれだろうが、
「9条=平和」という図式ができてしまったことは事実だろう。


もっと端的に言えば9条支持者は宗教信者と同様なのだ。



 「自分の考えは絶対間違っていない。自分は正しい。」

 そう考えるのは人の性だろう。しかし「歴史に学べ」とはその対極にあるのだ。



 本来「歴史に学べ」とは
 「自分が間違っているかもしれない」という謙虚な気持ちなのだ。
 間違っているかもしれないからこそ、他人から学ぼうとするのだ。


 大体自分が間違っていなければ、他人から学ぶ必要はない。
 他人から学ぶというのは「自分が間違っているかも…」という前提があるからだ。


 しかし9条が絶対に正しいという人々は、「間違っている」とは思わない。
 より強固に絶対に正しいと思うのだ。


 歴史に学ぶのは謙虚でなければならない





2.日本の歴史

 ところで先にビスマルクの言葉として「歴史に学べ」という言葉を書いた。
そしてその目的は「将来の失敗を未然に防ぐ」ということだ。


 実は日本の歴史というのもそれに近い。
日本で歴史に学べというのは「将来失敗しないため」である。


 現在とは、過去から見ると将来である。
過去の時点で考えていたこと、行動したことは芸罪からは自明である。
そして現在の結果もわかっている。


 そして現在も将来から見ると過去になり、将来は現在になる。


 つまり過去から現在起きたことを学べば、将来を予測することができる。
過去にこう考え、こう行動したが故に、現在の結果はこうなっている、というのなら、
現在こう考え行動したことは将来こうなる、というように。


 過去を学ぶことで、将来の失敗を防ぐことができるのだ。



 そのためには必ずしなければいけないことは正しい事実である。


 過去にどう考え、どう行動したのか?その正しい事実を収集しなければならない。
間違った事実を収集しても将来への教訓にはならない。



 炭素と酸素を混ぜても水はできない。
何度やっても二酸化炭素しかできないのだ。
それは「正しい事実」ではないからだ。


 酸素には水素を加えなければならない。
そうすると水ができるのだ。


 炭素と酸素という間違った事実を前提にしては間違った結論にしかならない。
水素と酸素という「正しい事実」を把握することが重要になる。



つまり「正しい事実」とは「嘘はいけない」ということだ。
「嘘」を前提にすると、将来、失敗をする。将来の失敗をしないために「歴史(他人の経験)に学ぶ」のに、
「嘘」前提にすると当然、将来失敗を繰り返すことになる。


将来の失敗を繰り返さないためにも」は厳禁なのだ。







3.韓国の歴史

ところで韓国も歴史を重視する。
歴史に学べ」と声高に叫ぶのはむしろ韓国で、
そういう面で日本より歴史を重視しているように思われる。


しかし…そうではない。


日本と韓国では歴史に対する考え方が違うのだ。


どういうことかというと、
日本の「歴史に学べ」とは「将来の失敗をしないため」であり、
韓国の「歴史に学べ」は「現在の自分たちを擁護する」ものだからだ




 韓国は儒教の国である。

 儒教とは神のいない宗教だ。
キリスト教イスラム教は「唯一神」の宗教で、神の言葉を重視する。
神は全知全能で、不死で、永遠に存在する。


 故に神との契約はいつまでも続くことになる。




 聖書やコーランは神の言葉だ。それに逆らうことは許されない。
故にキリスト教イスラム教は解釈の幅は多少あるが、やるべきことが決まっている。



しかし儒教にはそれがない。



 儒教は天という存在はある。
そこから天子(つまり中国皇帝)を遣わし、地上を治めることを認める。
 その天子がどうしてわかるのかというと、乱世の中で勝ち残るからである。
秦の始皇帝しかり、漢の高祖しかり、広い中国で戦い、
勝ち残ることこそ天から遣わされた証拠となる。


 そして天子がその地位についたら、何をやってもよいのだ。


 当然、前政権のやったことをひっくり返しても、また継続しても何をやっても良いのだ。
キリスト教イスラム教はそこが違う。彼らは聖書やコーランに書いてあることを無視することはできない。

 これらは神との約束なのだから、一方的に破ることは神を裏切ることになる。


 故にどんな破天荒な奴が出てきてもイスラム教徒である限り、
コーランを無視する」などとは言えない。



 しかし儒教にはそのような聖典はない。
もちろん「大学」や「中庸」「春秋」「孟子」などの経典はある。
彼ら儒者もその経典を大事にしている。


 しかしそれらは事例集にすぎない。


 儒教の世界ではそれらの経典を暗記して、
必要なことにその事例を引っ張り出せる人が偉いのである。


 昔の王様が「あれはどうすればよいと思うか?」と下達すると、
それに答えて「孟子によると○○○○でございます。
主君としてはそのようにされるべきでしょう」というのだ。


 しかし他方で別の者が口を挟み
「いえいえ、春秋によると××××です。王としてはそのようになさるべきです。」と口を挟む。


 こういう事例を膨大に覚えておき、
必要に応じて、素早く主君に質問に答える人こそ出世するようになるのだ。



この儒教の国こそが韓国なのだ。


 韓国にとって歴史とは現在の自分(もしくは主君)を擁護し、
正当化するためのモノなのである。


 
 彼らの歴史の議論を聞いていると決して認めない。
どんな根拠を提示されても、どんなに矛盾を指摘されても認めないのだ。


 それは認めると「現在の自分にとって都合が悪い」からである。
誤りを認めることで、自分の説得力が低下する、自分の信頼が低下することは都合が悪いのだ。


 日本人的な感覚からすると、「誤りは早く認めた方が傷は浅い」と思うのだが、
彼ら韓国人はそう考えない。


 認めることは現在の自分にとってマイナスなのだ。






4.日本の歴史と韓国の歴史

 日本の「歴史に学べ」が将来の失敗をしないためであるのに対して、
韓国の「歴史に学べ」は現在の自分を正当化するためである。


つまり両者は考え方が違うのだ。



 日本は将来失敗しないために、ミスをミスと認める。
それを早く認めた方が誠実だと思われる。
しかし韓国は現在の自分を守るためにミスを隠ぺいする。


 そこで使われるのが「」なのだ。



 日本のように「将来失敗しないため」であれば、「嘘は厳禁」である。
嘘を事実のもとに教訓を得ても将来の失敗を避けられない。
 水を作るのには水素と酸素を混ぜるのだ。決して炭素と酸素ではない。
そうすると失敗する。水素と酸素を混ぜるという事実を記載して、
後世につないでいくことが必要なのだ。



 しかし韓国のように「現在の自分を擁護、正当化」するためなら「嘘」であっても構わない

 と…いうより」の方が望ましい


 「事実」は融通が利かないものだ。
もう少し何とかしたいと思っても「事実」は冷徹に存在する。
そこは「過去」になっているので、特に手を出しにくいものがある。


 しかし、は融通無碍だ。

 如何様にでもオーダーメイドができる。必要に応じて加えることも差し引くこともできる。
在日コリアンは強制連行された」「慰安婦は性奴隷だ」「靖国参拝は韓国人を傷つける」
みんなだが、それによって現在の韓国人が日本人から搾取できるというメリットがある。


同じ「歴史に学べ」という言葉でも、
日本は将来の失敗をしないため、韓国は現在の自分たちを守るために使っている。


同じ言葉でも使っている意味はまるで違う。
日本は事実を、韓国は嘘をつくことが「歴史に学んでいる」のである。


こういう両者が歴史議論などしても意味はない。
韓国は自分たちの主張こそ「正しい歴史」なのであり、
それを認めない日本は悪い国なのだ。


日本にとって「正しい歴史」とは正しい事実に基づくものだ。
正しい事実に基づかなければ同じ失敗を繰り返す。
そうなりたくないためにも正しい事実が重要なのだ。



日本と韓国で歴史論争をすると、
日本人は根拠を挙げて相手を説得しようとする。
しかし韓国は根拠など求めていない


彼ら韓国自身を正当化するものが正しい歴史なのだ。


そして「正しい事実」を提示して韓国の言い分に反論する日本人に、韓国人はこう言う。


韓国への愛はないのか?

韓国にとって歴史とは自己弁護の手段なのだ