韓国の反日は差別だ!

韓国への反論をするための方法を提供

チケットキャンプ

北朝鮮より早く、より大規模に日本人拉致をした国


・日韓で行われた相互釈放
・足元を見た韓国
・韓国は、誠意を踏みにじる

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北朝鮮より早く、より大規模に日本人拉致をした国。
 韓国における国家的な日本人拉致という犯罪。




拉致国家韓国

 相互釈放という言葉をご存じだろうか?

韓国は1952年1月に李承晩ラインというものを公海上に勝手に引いて、それを越えた漁船を勝手に拿捕していた。



 この李承晩ラインは国際法上全くの不法な行為であるが、
現在まで韓国では「平和線」として、歴史を偽造して教えている。
もちろん国際法違反とは全く思っていない。

 結局、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約締結まで残り、
約4000人の日本人が拿捕され、死傷者は44人にも及んだ。




 この李承晩ラインによって捕まった日本人は、
一応裁判にかけられ、有罪判決が出されるのであるが、
刑期を終えても日本には帰ることができない。

 そのまま釜山の収容所に留め置かれて、外交取引のカードになる。


韓国の裁判でも刑期が終わった日本人を、何の理由もなく抑留するのだ。
正に当時の韓国はテロ国家、ならず者国家と言って過言ではない。


北朝鮮より先に、日本人の拉致を国家事業として行ったのが韓国である。





 他方、日本の長崎県の大村には韓国人の収容所があった。


 ここでは韓国から日本に密入国してきた韓国人と、
日本国内で罪を犯していた在日コリアンを収容していた。


 こちらは韓国と違い、法律に基づく収容であり、
韓国側に強制送還する順番を待っている側面もあった
密入国者は即刻だが、刑期途中の刑法犯は刑期満了後に送り返す)。


 しかし韓国側は強制送還を受け入れなかった。
そのため大村収容所は満杯状態になっていた。


 そこで大村収容所の韓国人と、釜山収容所の日本人を相互に釈放しようということになった。


 これが「相互釈放」である。


このことは1956年3月、当時の重光外務大臣と金韓国公使との間でまとまった。
当時の日本では釜山の日本人を解放せよという要求が強かった。
何の罪もないままに抑留されているのだから当然である。

他方で、国内で犯罪行為烏を行う在日コリアンへの反発も強かった。
彼らは日本人よりはるかに多くの罪を犯しており、日本の中でも困った存在だった。


そこに日本人を帰してもらう代わりに、
コリアンを国外に出せるのだから日本政府が喜んだのも無理はない。

早速日韓の外交当局の間で話し合いがまとまった。







日本国内の反発

しかし重光外相は国内調整をせずに韓国側と合意したため、
国内から、特に法務省から異論が噴出することになる。


なぜ法務省か?
それはこの相互釈放が、日本は釜山の日本人を引き取るが、
韓国側は大村の韓国人を一部引き取らずに日本国内で釈放して欲しいと主張したからだ。


引き取らない一部とは、密入国者(これは引き取る)ではなく、日本国内にいる在日コリアンの犯罪者である。
その中には前科10犯を越える罪人がおり、
そんな人物を釈放したら、“日本の治安がさらに悪化してしまう”という危惧があった。

治安を管轄する法務省としては黙認できないことだった。



この部分を1956年4月6日 朝日新聞2面の社説でこう主張する。
赤字は筆者

~略~ 何んと言っても筋の通らないのは、韓国側の主張である。
大村収容所で強制送還処分になっている約四百名の韓国人は、日本で罪をおかし、
刑を終えた者であって、これらの刑余者を本国へ送り還すべきことは、
国際慣行として認められているのみでなく、国内法上からも出入国管理令に明記されている。 
~略~ この韓国人の多くは凶悪犯で、中には前科十犯以上を重ねた者もいることを
われわれは考えないわけにはいかない。 ~略~


どうであろうか?
これは1956年当時の朝日新聞の社説である。


「韓国側の主張はおかしい」「この韓国人の多くは凶悪犯」等々韓国側に批判的である。
まあ全くその通りなのだから仕方がないが…。


 どの程度の凶悪犯かというと、1956年4月6日 衆議院法務委員会の議事録によると、
 ※赤字は筆者

○高瀬委員 ~略~ 今回釈放するその犯人の内容、それは政務次官も御存じでありましょうが、
科九犯ないし十二犯の者が十三人、六犯ないし八犯の者が八十人、三犯ないし五犯の者が二百四十人
こんな犯罪者が含まれているわけであります。 ~略~


合計約330人の犯罪常習者を、日本国内で釈放しろというのが韓国側の主張である。

本当に滅茶苦茶である。



この問題では、韓国側に融和姿勢を示して問題解決しようとする重光外相への風当たりが非常にきつい。
例えば4月13日の衆議院法務委員会の自民党の高瀬氏とのやり取りでは。
※1956年4月14日 朝日新聞1面より抜粋   ※赤字は筆者

高瀬氏 日本人漁夫は不法に抑留されているのだ。
罪を犯して韓国へ強制送還される韓国人の釈放と交換的に同じレベルで扱うことは国民感情が許さない。

外相  韓国の言うことを、なんでもかでも受け入れるというわけではないが、
出来るだけ寛容な態度で日本人漁夫を返してもらいたい。

そして「寛容な態度」で交渉を行った結果。
鳩山内閣では解決できず、岸内閣まで持ち越されることになる。


そして韓国の主張するように、韓国人犯罪者を釈放することになるのである。

その釈放された韓国人は再度日本国内で犯罪を行うことになる。



 岸内閣まで持ち越された相互釈放。
それに対して岸内閣では韓国側に、かなり譲歩した交渉を行う

それは1957年6月に訪米するためであり、
そのお土産として相互釈放問題を解決して、
日韓関係を改善する契機にしたいとの思惑があった。


 しかし韓国は、そういった日本側の足元を見越して、
それまでの交渉をブチ壊すような要求を突き付けてきた。






エスカレートする韓国の要求

 日本と韓国の間には、国交がなかった。故に国交正常化交渉が何度も行われた。
この交渉は初期の予備交渉を含めると、1951年(つまり朝鮮戦争中)に始まり、1965年に調印した。

14年間にわたる長期の交渉だった。


 しかしその間、何度か中断していた。その中断の一つが久保田発言に基づくもので、
その結果1953年~1957年までの4年間は日韓正常化の正式交渉が行われなかった。



 鳩山政権は日ソ国交正常化を上げていたため、反共国である韓国とは関係が悪かった。
短命の石橋政権を経て、岸政権ができると日韓間は急速に関係を深めた。
まだ岸政権ができる前だが、1957年2月2日(岸政権の成立は2月25日)には

「日韓相互釈放で近く協定へ」と、韓国の外務部長官が言明している。



そして日韓の正式交渉を再開させるに当たり、
まず相互釈放問題を解決することになり、
その交渉が1957年の6月までに行われた。


 なぜ6月かというと6月16日から岸首相の初訪米があり、
その前に日韓関係の改善をしたいという岸首相の意向があったからである。
当然それは訪米のお土産になる。



その後の経緯を朝日新聞の記事から拾ってみると ※赤字は筆者。

2月22日   「相互釈放」会談再開
3月 3日   日韓交渉、正式会談も再開へ
3月31日   日韓交渉再開交渉進む 韓国外務部長官 談
4月25日   日韓交渉 首相、渡米前に解決へ。まず抑留者の釈放
        早急に国交正常化を。李大統領声明。
5月 3日   日本人漁夫、11人を近く釈放。韓国政府。

5月20日   相互釈放にメド?抑留者問題、きょう岸・金会談 
        ※金裕沢韓国代表部大使  

5月28日   対日交渉、近く再開、梁韓国特使、パリで語る。
        ※梁特使は駐米大使で李大統領に近い人物。

6月 4日   すこし歩み寄る。首相帰国で大詰めへ
        ※岸首相は東南アジア歴訪していた。

  11日   日本ギリギリの最低線を示す。日本側さらに譲歩
  12日   日韓相互釈放 事実上の解決
        “15日までに解決”岸首相語る。日本側の財産請求権を譲歩
  13日   “刑期”表現で譲歩。“刑期を終えた”の表現残る。
        「久保田発言」撤回と対韓財産請求権の撤回で口上書提出
  14日   韓国、案文修正求む
  16日   韓国側から再修正案。財産請求権の処理など。外務省はきょう調印を予想
  17日   日韓調印、持ち越し。韓国の審議に手間どる。“足もと”みた韓国。



 こうして見ると、6月に入るまでは順調に来ており、12日には「事実上の解決」となっている。だが、14日には韓国から「再修正」を求められる。


14日に事態が急変したのがわかる。


岸首相は5月20日から6月4日まで東南アジアに歴訪しており不在であったが、
その間も石井光次郎副総理や外務官僚が熱心に交渉している。
そして合意まであと一歩のところまで行きながら、急に再交渉を求められたのだ






交渉の決裂

因みに事態が急変するまでも日本は多くの譲歩を行っている。


 例えば、大きく問題になっていたのは2点で
久保田発言の撤回対韓財産請求権の撤回である。


 「久保田発言」は先に書いたように1953年の日韓交渉時、首席代表の久保田氏が
「日本の統治時代には良いこともあった」と主張したことによって、交渉が中断した事件である。
 これは随分早くに撤回を決めていた。


 「対韓財産請求権」は日本及び日本人の韓国内における財産を日本側が請求する権利である。
これは韓国と日本で認識が違っており、韓国は「日本の財産請求権はなく、
一方的に韓国側の請求権だけがある」という立場なのに対し、
日本側は「韓国の対日請求権はもちろん認めるが、
日本の対韓請求権も当然発生する」という立場であった。

 
 この問題では、日本側にも「対韓財産請求権の撤回」はおかしいという意見が多かった。
例えば東京大学法学部の高野雄一助教授(国際法)は、
朝日新聞のコラム「論壇」に「韓国のいい分は無理ではないか 財産請求権の問題」を寄稿した。
※1953年10月23日 朝日新聞3面 ※赤字は筆者


その趣旨は以下の通りである。

「没収」は相手の所有物を取り上げることで、
「押収」は一時的に取り上げても後に返還しなければならない。
「没収」と「押収」の概念の違いを説明し、

一般国際法の原則では、特に私有財産については「没収」は認められない

韓国側は米軍が「没収」したのだから良いのだ。
というが、米軍にも(少なくとも私有財産については)「没収」する権限はない。
「押収」なら返還しなければならず、それが無理なら金銭で補償しなければならない。




 このように国際法上は日本の主張が正当なのだが、
日本は日本人漁夫を釈放してもらうために、対韓財産請求権を撤回したのだ。

 日本側は上記2点を認めるに当たり、口上書を韓国側に提出した。



 つまり日韓交渉の再開及び相互釈放の実現に、
大きな障害になっていた2つの問題は日本側の譲歩によって解決した。




しかし相互釈放は合意できなかった。それは韓国側が新たな問題を取り上げたからだ。


 それが6月13日の記事「“刑期”の表現で譲歩」である。


 韓国は釈放日本人が「“刑期”を終えて」釈放されたという部分に拘った。
それは李承晩ラインを日本側に正当なものとして認めさせるためである。


そして日本側は「“刑期”を終えて」という部分を容認したのだ。大幅な譲歩である。


故に、6月12日の記事で岸首相が「“15日”までに解決」と断言し、
朝日新聞でも13日に「こぎつけた“日韓相互釈放” 来月7百余名人帰る」として
交渉妥結を断定している。



 しかし韓国側は、さらに13日夜には表現上の問題として10ヶ所の修正を求め、
日本側は応じたが、さらに15日夜になって3~4項目の修正案を持ってきた。


 岸首相の訪米は16日の夜である。
その直前の修正要求だが、外務省ではそれも受け入れた。
それだけではなく「きょう調印を予想(16日の朝日新聞)と、なお希望を繋いでいた。



 しかし16日午後になって、韓国側から結論持ち越しの通告があった。
日本側が誠意を持って、ほとんど韓国側の主張を受け入れたにもかかわらず、
誠意を踏みにじったのである。




それでは何があったのか?

李承晩大統領は13日、UP通信の質問に書面で回答し、こういう言明をしている。
※1957年6月14日 朝日新聞1面  ※赤字は筆者

~略~ 「日本が李ラインの尊重など韓国の友情に値することを行動によって証明するまでは、
日韓の外交関係を確立するため正式会談を再開しても全くムダだろう」 ~略~

つまり李承晩ラインを合法的に認めろと言っているのだ。


 日本が努力して、韓国側の言い分をほとんど受け入れたのに、
最後の土壇場になった新たな要求を持ち出してきた。
 と…いうより、日本側が要求を受け入れてきたから、
新たな要求を持ち出したのだ。


李ラインを認めることなど日本にできる訳ないのに一方的に要求している。
とてもまともに交渉できる相手ではない。

彼ら韓国政府にとって譲歩とは結局、弱みだと認識するのだ。
それ故にもっととれると考えて要求を繰り返すのだ。



大体、相互釈放は韓国側には解決したくなかった可能性がある。


朝日新聞1957年6月17日1面にも

 >>
~略~ 日本の漁夫を李ライン侵犯のカドで捕まえて抑留しておくのも、
これをいわば“人質”としておくという“フシ”がうかがわれる。 ~略~

韓国の反日政策の本質は「パンとサーカスの政治」である。


「パンとサーカス」について



文藝春秋1975年2月号に「日本の自殺」という論文が発表された。
これを執筆したのは「グループ一九八四年」と名乗るグループだった。

「グループ一九八四年」は現在でもハッキリとは分からないが、
中心メンバーは香山健一氏(元学習院大学教授)であることは確からしい。

香山健一氏について


「グループ一九八四年」について
 上の参照では「1984」と算用数字だが、文藝春秋の元論文では漢数字なのでここではそのまま記す。



この論文は、「日本の自殺」という名の通り、高度経済成長を遂げ、
繁栄を謳歌する日本に迫る内部崩壊の危機に警鐘を鳴らしたものであるが、
2012年(当時の民主党政権)の政治状況を鑑み、
2012年3月号の文藝春秋に再掲載されたものである。



内容は、

ローマは外からの攻撃で没落したのではなく、内部からの社会的崩壊によって破滅した。

というものである。


その理由は、
1.ローマは巨大な富を集中して繁栄を謳歌していた。
2.ローマ帝国各地から人口が流入し、適正規模を越えて膨張した。
3.ローマ市民は1世紀以上にわたるポエニ戦争によって経済的に没落する。
そういう状況で政治家や金持ちに「パン」を要求する。


こうして働かなくても食べられるようになった市民は暇を持て余すようになる。
そうすると政治に口出しするようになるので、目を逸らすためにレジャーを必要とする。

これがサーカスである。



韓国の戦後直後は大変な状況だった。


韓国の場合はローマと違い、国が貧しい。
韓国は戦後、3年間のアメリカ軍政(1945~48)であったが、
実は食料事情は日本の統治時代より悪化していた。


日本の統治時代は1人当たり茶碗で2杯分の食料だったのが、半分になっている。
また1946年にはコレラが発生し、多くの死者が出た。
そのため一時日本から帰った在日コリアンが再度日本に密航する状態にもなっていた。


また政治的混乱は目も当てられなかった。

南と北で別れただけではなく、南でも南朝鮮労働党などの共産勢力が幅を利かせ、
民族主義的な勢力も国内組や海外組の勢力によって勢力争いが活発であった。


その中では暗殺も多く発生していた。

例えば、
宋鎮禹(ソン=ジウ)

呂運亨(ヨ=ウニョン)

金九(キム=グ)


彼ら独立運動家は日本の統治時代は刑務所に入ることはあっても、
朝鮮総督府に殺されることはほとんどなかった(抵抗した場合は除く)。

そのため独立運動家の多くは、
独立が成し遂げられた後で同じ民族によって粛清されているのである。


こういう状況であったため、当時の李承晩政権は国民の目を逸らし
また自らの政治的正統性をアピールする必要もあった。


そのための格好なネタが反日だった。
反日を煽り、苦しい生活から国民の目を逸らさせる必要があったのだ。


国民の目から政治的失態と正統性を逸らす
「サーカス」こそが「反日」だったのである。


結局、李承晩は1960年に国民により失脚した。

しかしその後も反日だけは韓国に根付いていくことになる。


韓国国民の娯楽(サーカス)として。

韓国人が反日ができないと…「ああ・・・つまらん」


ああ……つまらん!



 筆者は、韓国が反日を行うのは面白いからだと書いた





韓国は歴史問題で日本を批判し、世界に向かって、

「日本人はこんなに悪い奴らですよ!」と主張する。


そうするとよく分からない(日本と韓国の区分もついてない)他国の人たちが、


「そうなのか!日本人はそんなに悪い奴なのか!」と同情する。


そうすると「ほ~らみろ!日本人を世界中が批判している。」


「お前たちは世界から孤立しているのだ。」


「だから、韓国に対して謝罪しろ!賠償しろ!金よこせ!金よこせ!金よこせ!…もっと金よこせ!」





なぜ…そうするのか?



そうすることが韓国人にとって、非常に楽しく面白いのだ


日本人を批判し、侮辱し、差別する
。ことが非常に面白いのだ。





これが日本国内向けのケースもある。以前はよくあったケースである。



韓国「日本はけしから~ん!」


日本の某政党 「隣国との関係が…」「誠意をもって…」


某弁護士協会 「法的責任を認めよ」


某大学教授達 「日本政府は前向きな対応を…」


某市民活動家 「謝罪と賠償を…」


韓国 「多くの良心的日本人が日本政府を批判している。」


「だから、韓国に対して謝罪しろ!賠償しろ!金よこせ!金よこせ!金よこせ!…もっと金よこせ!」以下同じ


最近は世論の反発もあって少なくなってきたが、以前はよくあったケースである。

それどころか韓国人が全く主張していないのに、
一生懸命ネタを探して韓国にご注進する運動家やジャーナリストもいた。







少し前にあった事例では…


韓国 「世界遺産の登録はけしから~ん!」


日本 「あっ?関係ねーだろ!」


韓国 「世界のみなさーん!日本が歴史を捏造していますよ!」


ドイツ 「おっ…おう!」


クロアチア 「あっ、ああ…!」


どうやらうまくいかないようなので!



ユンビョンセ外相 「日韓一緒に登録しましょう!」




韓国は、日本の邪魔をすることができなかったので、面白くないのである。

だからやめた。

多くの韓国人 「日本人の邪魔ができなくてつまらないなぁ!」


多くの韓国人 「ああ……つまらん!」


多くの韓国人 「さてと!他のネタを探すか!」


といったところですね!

えっ?A級戦犯が世界の称賛の的?日本の国連加盟!


A級戦犯は批判されていたのか?
・実際のA級戦犯の対応はこうだ
国連加盟時には全加盟国が反対しなかった。

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日本の首相がA級戦犯の合祀された靖国神社に参拝するのはけしからん。
A級戦犯侵略戦争の指導者であり、
そこに日本の首相が参拝することは被害国に理解されるはずがない。
そんなことをしているから日本は周辺国と関係改善ができないのだ。




今回はA級戦犯が本当に国際的に、特にアジア諸国で批判されてきたのか
ということを取り上げてみたいと思う。


例えば靖国神社に参拝することを反対していた韓国の金大中氏大統領は
A級戦犯の合祀がなければ自分も参拝したいと主張していた。


 実際に日本と闘った連合国やアジアの人々も
A級戦犯を毛嫌いしていたのであろうか?







国連加盟の代表へ



A級戦犯の一人、重光葵のケースを見てみよう。

1954-56年の鳩山一郎内閣でずっと外務大臣を務めていた。
その間多くの元連合国やアジア各国の要人と会談していた。


しかし全く問題にならなかった。



例えば中国の要人周恩来外務大臣 重光葵の来訪を心待ちにしていた。

周恩来氏「鳩山、重光両氏の来訪待つ」日本ジャーナリスト会議代表に

  1956年7月17日 朝日新聞2面



 このような中、日本は国連加盟を行う。
当時は日本の加盟に反対していたソ連と関係改善を行い、国連加盟に対して障害がなくなっていた。

 その国連加盟の代表に、日本は現役外務大臣重光葵を派遣したのだ。



日本の国連加盟は1956年12月である



 つまり戦争終結から11年しかたっていないのである。
当然、各国には日本と闘った時代を良く知っている人たちがたくさんいただろう。
日本と闘った兵士、外交官、被害にあった一般人。こういった人たちが大量に生きていたのである。


 調べてはいないが、当時の国連関係者の中にも日本軍の被害者やその知人がいることは容易に想像がつく。
そういう状況の中でA級戦犯重光葵が代表として国連加盟を訴えたのである。


 当然各国から非難轟々の嵐が吹き荒れたのだろう。


 後世の我々から見ると、そう思うかもしれない。しかしそんなことはなかったのである。


それどころか称賛の嵐だった。






称賛される元A級戦犯


日本は80か国目の国連加盟国である。故にそれまで79ヵ国が加盟していた。
そこでどうなったか?

賛成77票 反対0票 棄権2票


圧倒的多数で可決されたのである
(因みに棄権の2票はアジアではなく、南アフリカハンガリー)。


日本の国連加盟の提案はペルーが提案していた。
しかし共同提案国が徐々に増えていって最終的に共同提案国51ヵ国になった。

その中にはアメリカ、中国(国府)、イギリス、フランス、ソ連常任理事国5ヵ国と
インド、インドネシア、フィリピン、タイ、ビルマカンボジア、セイロン(スリランカ)といったアジア諸国
さらにカナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった東京裁判の参加国も入っている。


特にアジアはマレーシアやシンガポールベトナム等がまだ国連に加盟していないので、
それを除くと、日本と戦争中関係のあったほぼすべての国が「共同提案国」になっている。



 A級戦犯の代表になっている日本の加盟をアジア各国が認めているのだ。

 これでどうしてA級戦犯の合祀された靖国神社に参拝することは
アジアを傷つけるといえるのか?


 それに中国(共産党)も重光外相の来訪を望んでいたし、
韓国も何度も重光外相と会談を行っている。


つまりA級戦犯云々はのちの世代が作ったなのである。


加盟が決まった直後の重光氏への様子を当時の朝日新聞はこう伝える。

国連の:引用者注)正副議長から祝辞。タイ(ワン議長)、中国(蒋副議長)。
 インド(メノン代表)駆け寄って握手。  12月19日1面

 握手攻めの重光代表。和やかな気分ただよう!  19日夕刊3面

とてもA級戦犯に対する扱いとは思えない。



その後、重光氏は突然の死を迎える。朝日新聞の1957年1月26日1面にはこうある。

 重光氏死去。1月26日 午前0時25分

そして1月29日 朝日新聞1面はこう伝える。

 故重光前外相に黙とう。国連総会 全代表が1分間。

A級戦犯云々は後世のねつ造である。
そうでなければどうして日本とったかった連合国側が「黙とう」を捧げるのだ。


われわれは、中韓の言う歴史“認識”ではなく、正しい歴史的事実を知らねばならない。

「歴史問題」で、日韓の話が合わないその理由とは・・・!


・「歴史に学べ」日本と韓国の違い
・日本と韓国は歴史の考え方が違う
・日韓の歴史論争など不毛

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1.歴史に学べ

 前回「歴史に学べ」ということを検証した。
「歴史に学べ」とはプロイセンの宰相ビスマルクの言葉であり、
彼自身は「歴史に学べ」とは言っていない。

前回の記事に関してはこちらを参照してください。


彼は「他人の経験から学べ」と言っているのだ。
それは自分の経験を絶対視することなく、より多くの他人の経験から、
特に他人の失敗から学ぶことで、将来の失敗を防ぐことができる。


自分の経験より他人の方がたくさん経験している。
たくさん失敗している。その他人の経験を学ぶことで、
自分は失敗を未然に防ぐことができるのだ。


まあ筆者は他人の経験の集合体が「歴史」だと思っているので、
「他人の経験」=「歴史」と読み替えても問題ないだろう。



つまり巷間言われているように
「賢者は歴史(他人の経験)に学ぶ。
愚者は経験に学ぶ」
ということだ。


そして日本で歴史に学べという多くの人が、
実は歴史に学んでおらず、自分の経験のみを重視していること、
そして最初から「日本が悪かった」という結論ができていることを書いた。


そして韓国でも同様であることを書いた。





なぜそうなるのかというと、彼らは傲慢だからだ。


「自分たちは絶対に間違っていない」「自分たちこそ正しい」


こういう根拠不明の思い込みがあるから、
上から目線で他人に「歴史に学べ」などと言えるのである。


その実、自分は決して歴史(つまり他人の経験)から学ばず、
自分の経験を絶対視することになる。



こういう話を聞いたことはないだろうか?

戦争は絶対いけない。
昔、わしは子供のころ空襲を受けて、友人も大勢亡くした。
腹が減っても食べ物もなく、家は焼かれ、着る物もなかった。
こういう悲劇は二度と繰り返してはいけない。
だから戦争を無くすためにも憲法9条は守らなければならないのだ。

戦争を無くすことは賛成だが、
それがどうして憲法9条と結びつくのか?その根拠となっているのが、
子供のころ戦争で悲惨な思いをしたということだ。



しかしそれは9条とは結び付かない



9条と結びつくのは「9条があれば戦争が起きない」という信念なのだ。
その信念が教育によるものか?周りの影響によるものかは人それぞれだろうが、
「9条=平和」という図式ができてしまったことは事実だろう。


もっと端的に言えば9条支持者は宗教信者と同様なのだ。



 「自分の考えは絶対間違っていない。自分は正しい。」

 そう考えるのは人の性だろう。しかし「歴史に学べ」とはその対極にあるのだ。



 本来「歴史に学べ」とは
 「自分が間違っているかもしれない」という謙虚な気持ちなのだ。
 間違っているかもしれないからこそ、他人から学ぼうとするのだ。


 大体自分が間違っていなければ、他人から学ぶ必要はない。
 他人から学ぶというのは「自分が間違っているかも…」という前提があるからだ。


 しかし9条が絶対に正しいという人々は、「間違っている」とは思わない。
 より強固に絶対に正しいと思うのだ。


 歴史に学ぶのは謙虚でなければならない





2.日本の歴史

 ところで先にビスマルクの言葉として「歴史に学べ」という言葉を書いた。
そしてその目的は「将来の失敗を未然に防ぐ」ということだ。


 実は日本の歴史というのもそれに近い。
日本で歴史に学べというのは「将来失敗しないため」である。


 現在とは、過去から見ると将来である。
過去の時点で考えていたこと、行動したことは芸罪からは自明である。
そして現在の結果もわかっている。


 そして現在も将来から見ると過去になり、将来は現在になる。


 つまり過去から現在起きたことを学べば、将来を予測することができる。
過去にこう考え、こう行動したが故に、現在の結果はこうなっている、というのなら、
現在こう考え行動したことは将来こうなる、というように。


 過去を学ぶことで、将来の失敗を防ぐことができるのだ。



 そのためには必ずしなければいけないことは正しい事実である。


 過去にどう考え、どう行動したのか?その正しい事実を収集しなければならない。
間違った事実を収集しても将来への教訓にはならない。



 炭素と酸素を混ぜても水はできない。
何度やっても二酸化炭素しかできないのだ。
それは「正しい事実」ではないからだ。


 酸素には水素を加えなければならない。
そうすると水ができるのだ。


 炭素と酸素という間違った事実を前提にしては間違った結論にしかならない。
水素と酸素という「正しい事実」を把握することが重要になる。



つまり「正しい事実」とは「嘘はいけない」ということだ。
「嘘」を前提にすると、将来、失敗をする。将来の失敗をしないために「歴史(他人の経験)に学ぶ」のに、
「嘘」前提にすると当然、将来失敗を繰り返すことになる。


将来の失敗を繰り返さないためにも」は厳禁なのだ。







3.韓国の歴史

ところで韓国も歴史を重視する。
歴史に学べ」と声高に叫ぶのはむしろ韓国で、
そういう面で日本より歴史を重視しているように思われる。


しかし…そうではない。


日本と韓国では歴史に対する考え方が違うのだ。


どういうことかというと、
日本の「歴史に学べ」とは「将来の失敗をしないため」であり、
韓国の「歴史に学べ」は「現在の自分たちを擁護する」ものだからだ




 韓国は儒教の国である。

 儒教とは神のいない宗教だ。
キリスト教イスラム教は「唯一神」の宗教で、神の言葉を重視する。
神は全知全能で、不死で、永遠に存在する。


 故に神との契約はいつまでも続くことになる。




 聖書やコーランは神の言葉だ。それに逆らうことは許されない。
故にキリスト教イスラム教は解釈の幅は多少あるが、やるべきことが決まっている。



しかし儒教にはそれがない。



 儒教は天という存在はある。
そこから天子(つまり中国皇帝)を遣わし、地上を治めることを認める。
 その天子がどうしてわかるのかというと、乱世の中で勝ち残るからである。
秦の始皇帝しかり、漢の高祖しかり、広い中国で戦い、
勝ち残ることこそ天から遣わされた証拠となる。


 そして天子がその地位についたら、何をやってもよいのだ。


 当然、前政権のやったことをひっくり返しても、また継続しても何をやっても良いのだ。
キリスト教イスラム教はそこが違う。彼らは聖書やコーランに書いてあることを無視することはできない。

 これらは神との約束なのだから、一方的に破ることは神を裏切ることになる。


 故にどんな破天荒な奴が出てきてもイスラム教徒である限り、
コーランを無視する」などとは言えない。



 しかし儒教にはそのような聖典はない。
もちろん「大学」や「中庸」「春秋」「孟子」などの経典はある。
彼ら儒者もその経典を大事にしている。


 しかしそれらは事例集にすぎない。


 儒教の世界ではそれらの経典を暗記して、
必要なことにその事例を引っ張り出せる人が偉いのである。


 昔の王様が「あれはどうすればよいと思うか?」と下達すると、
それに答えて「孟子によると○○○○でございます。
主君としてはそのようにされるべきでしょう」というのだ。


 しかし他方で別の者が口を挟み
「いえいえ、春秋によると××××です。王としてはそのようになさるべきです。」と口を挟む。


 こういう事例を膨大に覚えておき、
必要に応じて、素早く主君に質問に答える人こそ出世するようになるのだ。



この儒教の国こそが韓国なのだ。


 韓国にとって歴史とは現在の自分(もしくは主君)を擁護し、
正当化するためのモノなのである。


 
 彼らの歴史の議論を聞いていると決して認めない。
どんな根拠を提示されても、どんなに矛盾を指摘されても認めないのだ。


 それは認めると「現在の自分にとって都合が悪い」からである。
誤りを認めることで、自分の説得力が低下する、自分の信頼が低下することは都合が悪いのだ。


 日本人的な感覚からすると、「誤りは早く認めた方が傷は浅い」と思うのだが、
彼ら韓国人はそう考えない。


 認めることは現在の自分にとってマイナスなのだ。






4.日本の歴史と韓国の歴史

 日本の「歴史に学べ」が将来の失敗をしないためであるのに対して、
韓国の「歴史に学べ」は現在の自分を正当化するためである。


つまり両者は考え方が違うのだ。



 日本は将来失敗しないために、ミスをミスと認める。
それを早く認めた方が誠実だと思われる。
しかし韓国は現在の自分を守るためにミスを隠ぺいする。


 そこで使われるのが「」なのだ。



 日本のように「将来失敗しないため」であれば、「嘘は厳禁」である。
嘘を事実のもとに教訓を得ても将来の失敗を避けられない。
 水を作るのには水素と酸素を混ぜるのだ。決して炭素と酸素ではない。
そうすると失敗する。水素と酸素を混ぜるという事実を記載して、
後世につないでいくことが必要なのだ。



 しかし韓国のように「現在の自分を擁護、正当化」するためなら「嘘」であっても構わない

 と…いうより」の方が望ましい


 「事実」は融通が利かないものだ。
もう少し何とかしたいと思っても「事実」は冷徹に存在する。
そこは「過去」になっているので、特に手を出しにくいものがある。


 しかし、は融通無碍だ。

 如何様にでもオーダーメイドができる。必要に応じて加えることも差し引くこともできる。
在日コリアンは強制連行された」「慰安婦は性奴隷だ」「靖国参拝は韓国人を傷つける」
みんなだが、それによって現在の韓国人が日本人から搾取できるというメリットがある。


同じ「歴史に学べ」という言葉でも、
日本は将来の失敗をしないため、韓国は現在の自分たちを守るために使っている。


同じ言葉でも使っている意味はまるで違う。
日本は事実を、韓国は嘘をつくことが「歴史に学んでいる」のである。


こういう両者が歴史議論などしても意味はない。
韓国は自分たちの主張こそ「正しい歴史」なのであり、
それを認めない日本は悪い国なのだ。


日本にとって「正しい歴史」とは正しい事実に基づくものだ。
正しい事実に基づかなければ同じ失敗を繰り返す。
そうなりたくないためにも正しい事実が重要なのだ。



日本と韓国で歴史論争をすると、
日本人は根拠を挙げて相手を説得しようとする。
しかし韓国は根拠など求めていない


彼ら韓国自身を正当化するものが正しい歴史なのだ。


そして「正しい事実」を提示して韓国の言い分に反論する日本人に、韓国人はこう言う。


韓国への愛はないのか?

韓国にとって歴史とは自己弁護の手段なのだ



 

韓国独立運動家の告白 その驚愕の内容は現在の韓国史を書き換える!


わかりやすい韓国の歴史
国定韓国小学校社会科教科書 P127  赤字は筆者

大韓民国臨時政府は、中国の諸地域に散在して闘っていた独立軍を一つに集めて光復軍を組織した。 ~略~
光復軍は祖国の独立を取りもどすために、きびしい訓練をしながら時期を待っていた。
ついに日本が第二次世界大戦を起こした。
そこで、臨時政府は日本に宣戦布告をして、連合軍と連絡をとりながら独立戦争を展開していった。 ~略~
 このように民族全体が国の内外で力を合わせて日本に対抗したので、ついに私たちは光復を迎えることができた。


これは1997年の韓国の小学校の国定教科書である。
少し古いが、その後もあまり変わってはいない。
(ただし現在は、国定教科書がなくなり、複数教科書が認められている。)



ここでは韓国が独立運動の結果、日本から独立したことが謳われている。



一方、こう言った証言もある。


「えっ!倭敵が降服!」
 これはわたしのとっては、嬉しいニュースというよりは、天が崩れるような感じのことだった。
~中 略~
 それよりも心配だったのは、われわれがこの戦争でなんの役割も果たしていないために、
将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろうということだった。

金九著 白凡逸志(ペクポムイルジ) P302~303 
赤字は筆者

戻ってみると、わが光復軍は、
自己の任務に就きえずして戦争が終わってしまったことにがっかりしてしまい、
沈鬱なふんい気にひたっていたが、アメリカの教官や軍人たちは、
秩序もなにも忘れるほど喜び騒いでいた。

金九著 白凡逸志(ペクポムイルジ) P303
赤字は筆者

金九は大韓民国臨時政府のトップを1940年~1947年後
(つまり光復後)までやっていた人物であり、光復軍の産みの親でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B9%9D

その人物が「なんの役割も果たしていない」
「わが光復軍は、自己の任務に就きえずして戦争が終わって」しまった、
と述べているのである。



さらに同じく独立運動家で、後の民主運動家の咸錫憲は

われわれがまず明らかにしなければならないことは、
この解放が盗っ人のように不意に訪れたということだ。
解放後の腹立たしいこと、醜いざまは一つや二つではないが、
その中でもほんとうに腹立たしいのは、
この解放を盗もうとするやつらの多いことだ。

咸錫憲著 苦難の韓国民衆史 P302  ※赤字は筆者


それは嘘だ。~略~ それほど先見の明があったなら、
どうして八月十四日までへりくだって服従していたのか。 ~略~

そういうことはやめて素直になろう。君も僕もみな知らなかったのだ。 
~略~ 神社参拝しろといわれれば腰が折れんばかりに拝み、
姓を改めろといわれると競い合って改め、
時局講演といえばありったけの才能を傾けて語り、
米・英を罵倒し、転向しろといわれれば実にアッサリ転向し、~略~

咸錫憲著 苦難の韓国民衆史 P303   ※赤字は筆者


全くぼろくそである。
「盗っ人のように不意に訪れた」解放を、
まるで分かっていたかのように、
したり顔で主張する人物を痛烈に批判している。




また所謂、独立運動家にも批判的である。 

また海外流浪何十年と格好はよいが、~略~ 
ハワイやサンフランシスコではアメリカ人の召使いをしながら勢力争いをし、
重慶・南京ではとうもろこし粥をもらって食いながら地位争いをしていた人たちが、
~略~ この国が解放されるとあらかじめわかっていた人など一人もいないのだ

咸錫憲著 苦難の韓国民衆史 P303   ※赤字は筆者



咸錫憲は後に2度もノーベル平和賞の候補になった人物である。



結局、韓国のほとんどの人物が独立運動などしていない。
少数の例外的な独立運動家を針小棒大に取り上げることにより、
歴史を捏造しているのが、韓国の教科書である。



実際、先の小学生向けの教科書の中には複数の間違いがある。

「日本が第二次世界大戦を起こした」とかはまあ置いておいて
(実際は、ドイツとソ連ポーランドへ侵略して始まった)、
その他にも明らかな嘘がある。


・日本に宣戦布告 
→明確な嘘!臨時政府は日本に宣戦布告をしていない。
宣戦布告文書を作っただけ。

・連合国と連絡をとりながら…
→連合国側で、臨時政府を承認した政府はない。
「連絡をとり…」は嘘ではないが、誤解を招く表現である。

独立戦争を展開
→宣戦布告もせず、ましてや日本軍と戦闘をした実績は皆無なので、
独立戦争は明確な嘘。
事実、連合国側に認められず、サンフランシスコ条約にも呼ばれなかった。


実際には、光復軍は全く何の役にもたっていない。

しかし韓国の教科書では自分の力で独立したと書いてあるのである。

これは全くの歴史の捏造である。

歴史に学ぶということ…日本で歴史に学べという人は「学んでいない」

・「歴史に学べ」と言う人は歴史に学べない
・日本で学ぶ歴史は「日中戦争」と「太平洋戦争」だけ
・韓国は歴史に学べない
―――――――――――――――――――――――――――――――――――


<目 次>

1.日韓の歴史解釈
2.民主主義の原則
3.「歴史に学べ」の意味
4.歴史に学べない横柄ない人
5.個人の経験で判断する愚
6.個人を国に置き換えると
7.韓国は民主国家か?







1.日韓の歴史解釈

 日本と韓国の間には歴史問題というものがある。
「教科書問題」「慰安婦問題」「竹島問題」「靖国問題」すべて歴史が関わっている。


 「歴史問題」とはいわば歴史の解釈の問題である。

歴史的事実をどう捉えるか?どう解釈するか?

それが問われているのだ。



例えば日韓では1910年に「日韓併合」と言うものがあった。
これは当時の大韓帝国が日本に併合され、国を無くしてしまったことを表している。


この事実に反対の論者はいない。
日本でも韓国でも「日韓併合」という事実に争いはないのだ。


しかし解釈には違いがある。

日韓併合と言う事実に関して、日本は「合法に結ばれた」と主張して言うのに対して、
韓国は「無効である」と主張している。


つまり日本は1910年当時併合条約が結ばれたのは「合法」という解釈なのだが、
韓国では暴力的に併合されたので「無効」であるという解釈だ。


実際に1965年の日韓基本条約を締結するに際して、

「もはや無効」と謳った


つまり日本側は「1965年時点には無効になっている」という解釈ができるし、
韓国側は「最初から無効である」と解釈ができる。


こういう玉虫色な解釈ができる条文になっているのだ。


 ここでは解釈が違うのだから、外交テクニックとしてこのような手段を使っている。
その前提として両国とも都合の良い解釈を使うという暗黙の了解がある。


 しかし実際には韓国側が、日本に自国の解釈を押し付けることが多いが…。



 このように解釈の違いが後々のトラブルになる。
しかし先に書いたようにそこに暗黙の了解があれば問題はない。
しかし暗黙の了解がなく、もしくはあっても一方的に破棄する場合、
両国間で深刻なトラブルになる。


 そしてその際に起きるのが、解釈の強要である。
つまり先の例で言うと「日韓併合は最初から無効と認めろ」と要求する韓国政府がそうだ。



 日韓間の歴史問題とはそのような解釈の違いと、解釈の強要によって起こっている。
 

 それもほとんど韓国側の強要によって起きているのだ。






2.民主主義の原則

 このブログでは日韓関係を中心に書いている。
日本には中国との間でも歴史問題があるが、この際は無視する。
故に当事者としては「日本」と「韓国」を前提とする。


 ところで日本も韓国も民主国家である。


 民主国家とは「国民が主権者」である。
主権者とは色々な定義があるが、いわば最終決定者であり、
日本も韓国も国民の名のもとに最終的に決定する。


 例えば両国とも(もしくは他の民主主義国も)条約を締結するにあたって「批准」という行為をする。
これは国民に選ばれた政府が他の政府と合意して条約を締結しても、最終的に国民の了承を得なければならない。


 その国民とはいちいち国民投票にかける訳にはいかない。
そのために国民の代表者を決めて、そこで審議をして、議決をして決定することになる。


 これが国会で、そこで国会議員が決定することが、国民が決定したことになる。


 
 そして民主主義国には色々な原則がある。
基本的人権の尊重」であるとか、「思想信条の自由」とか「国民主権」とか。


 その中で言論の自由というものがある。


 「言論の自由」とは自由に意見が言えることであり、それを制限されてはならない。
しかしそれは言論に対して無批判であることを意味しない。


 言論が認められるということは、それに反対することも認められなければならない。
反対することは言論弾圧ではない。



 つまり民主国家とは「言論の自由」が認められなければならないし、
そのためには反対意見も認められなければならない。
自分の意見と違うことをもってその意見を排除することは民主国家とは言えない。



 つまり韓国政府の意見と違うことを持って、それを排除し、弾圧してはいけない。
ましてや意見が違う人たちと話し合うことも拒否する態度ではならない。


 民主国家では歴史の解釈が違うことをもって排除してはならないのだ。





3.「歴史に学べ」の意味

 「歴史に学べ」という言葉はビスマルクに言葉である。

 ビスマルクについてはこちらを参照



 実際には「歴史に学べ」と言っているわけではない。
それはこのような意味である。以下に引用する。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。
私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。


ビスマルクは他人の経験から学ぶと言っているのであって、
歴史に学ぶとは言っていないそうであるが、ここではどうでもいい。


 筆者は「歴史」=「他人の経験」であると思っているので、
他人の経験(特に失敗)から学ぶことは、「歴史に学ぶ」のと同義語である。


 つまり自分の体験や経験を絶対視し、
その他の意見を聞こうともしないということは「愚か者である」と言っているのだ。


 これこそがビスマルク言葉の肝である。








4.歴史に学ばない横柄な人

よく大上段に振りかざして、「歴史に学べ」と述べている人がいる。

 大体そういう人がいう「歴史」とは「太平洋戦争」や「日中戦争」のことである。そしてその結論は決まっている。

 
 日本が悪かった!

 こういう人によると、日本は良いこともやったという人は歴史に学んでいない人になる。


 少し考えるとおかしいことが分かる。


 歴史を真摯に学んだ結果、日本は韓国に良いことをやった
というのはあってしかるべきなのである。


 しかしこれはダメなのである。


 彼らの中では、日本が悪いことをやったのは自明のことだから、
真摯に歴史を見れば「日本が悪い」という結論にしかならないのである。






5.個人の経験で判断する愚

 毎年の年中行事になったが、8月15日に近づくと戦争中の被災者が出てきて、
こんな大変なことがあった。こんな苦しい思いをした。と訴える映像を流す。


 これらを見ていると、可哀そうだと思うし、大変だと思う。
私はこんな経験はないので身をつまされる思いがする。


 しかしドライに言ってしまえば、これは一つの経験に過ぎない。
歴史家で作家の保坂正康によると、
「日本人が空襲を受け、被害を受けたのは終戦の約1年前からで、
それまでは被害を受けなかったので、むしろ積極的に軍を応援していた」と主張している。


つまりこういう被害者も勝っている当時は、
全く別のことを言っていた可能性があるのだ。



 そして気を付けなければならないのは、

「可哀そうと思うのは感情である」ということだ

 政治的な行動をとる時(つまり法案審議等)には、
感情ではなく理性で行動しなければならない。
 そして理性的な行動とは「好き嫌い」で判断するのではなく、
「良いか?悪いか?」で判断すべきことなのである。



「可哀そう」と思うのは個人の感情であり、思考の停止につながる。
それを法案審議と重ね合わせにすることは慎むべきである。


「私はこんな悲惨な目にあった」→ 「だから戦争はダメ」 
→ 「だから9条改正はダメ」という、お年寄りの訴えに思考の停止になってはいけない


それとこれとは話は別であり、日本の安全保障環境が悪くなることは、むしろ戦争を誘発する。
故に日米同盟強化のために、自衛隊憲法に位置付けることはむしろ戦争を排除する事に繋がる。
故に憲法改正は賛成である。

と主張しなければならない。





6.個人を国に置き換えると

 先程のビスマルクの言葉は
「自分の経験を絶対視し、他人の経験に学ばない人は愚かである。」と言っているのであるが、
これを国に置き換えると以下のように主張することができる。


自国の、特に特定の経験を絶対視し、
他国の経験に学ばないことは愚かな国である。


そう…歴史に学べというと「日中戦争」と「太平洋戦争」だけを教訓にし、
結論も「日本は悪かった」しか許さない人びとは、愚か者なのである。


今、中国とベトナムで何が起きているのか。中国とフィリピンで何が起きているのか?
ウクライナはロシアを侵略したのか?イスラム国は?ポゴハラムは?


学ぶべき他国の経験は現代でもたくさんある。それを無視し、
70年前の自国の特定の経験だけを絶対視することは、真正の愚か者と言わざるを得ない。







7.韓国は民主国家か?

 こう考えると韓国が民主国家かどうか疑わしくなる。
韓国は国民が選んだ大統領が君臨し、5年に1度の選挙がある。
それに4年に一度の国会議員選挙もある。


 こういう状況を見ると民主国家と言えるだろう。


 しかし歴史問題で、日本の主張を全く受け入れず、
自国の主張を繰り返すだけの国家が歴史に学んでいると言えるのだろうか?


 自分と異なる意見も容認する民主国家と言えるのだろうか?



 韓国が民主国家であると証明するのなら、日本と歴史問題で議論をするスタンスを示さなければならない。
そして他人(つまり日本)の意見を尊重しなければならない。


 韓国の態度は歴史を重視する態度ではなく、歴史を蔑ろにする態度だ。
こういう国とは歴史問題で話し合うことはできないだろう。






まとめると、

1.歴史に学べという人を信じるな。
歴史に学べという人は、自分は学んでいない。
なぜなら自分が歴史を知っていると思い上っているから。
思い上がっている人は謙虚に学ぶことはできない。


2.被災者の意見に思考の停止をするな
戦争被害者の意見は貴重ではあるが、一つの経験に過ぎない。
その経験を絶対視して、感情的になり、思考の停止になってはいけない。
理性的な判断を下すべきである。


3.自国の特定の歴史を絶対視するのは愚か者である。
ビスマルクの言葉を国に置き換えると、自国の経験を絶対視し、
他国の経験から学ばないものは愚か者である。


4.韓国は民主国家ではない。
自国の歴史と違うからと排除するのではなく、
違う意見も尊重しなければならない。



 我々は賢者ではないかもしれないが、
愚者にはなりたくないものだ。

安倍晋三の人気はないが、岸信介は韓国の人気者


安倍晋三は韓国で人気がない
岸信介は韓国で人気だ

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



お爺さんは人気者

総理大臣の安倍晋三は、
現在、森友学園加計学園の問題で多くの国民から批判を集めている。


元々第2次安倍政権が始まってから4年以上たつのに
支持率が50%を上回るなど高い支持を集めていた。
それが学園の不祥事や安倍首相の国会答弁を巡って
国民の批判が高まっている。


それ故に東京都議会議員選挙では
歴史的な敗北を喫したのだ。





しかし最近反発し始めた日本国民とは違い、
安倍政権発足時から批判しているのは日本ではなく、韓国国民だろう。



 
各種の調査を見ても世界各国で日本に対する好感度が高いのに、中国と韓国だけが突出して低い。
中国は政府主導の反日だが、韓国は一般国民の中にある草の根の反日である。



故に問題は深い。



 もちろん韓国国民が安倍首相を嫌うのは、
彼らの基準で「極右政治家」であるからなのだが、彼のお爺さんは違った


安倍晋三の祖父と言えば言わずと知れた

岸信介である。

 太平洋戦争開戦時の閣僚であり、戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨に抑留され、
その後釈放されて、政界に復帰。見事に総理大臣の地位を得た。


またの名を昭和の妖怪


 このような人物が韓国で人気だったことはあまり知られていない。


1959年6月14日 朝日新聞2面に以下のような記事がある。

 >>
岸株、韓国ではおとろえず。

韓国の擁護をする良心的日本人 彼らを駆り立てる3つの理由とは?

・日本の悪口を言う良心的日本人
・彼らが悪口を言う3つの理由
・良心的日本人こそ、日韓関係悪化の原因

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


日本人でありながら、
韓国に迎合する人がいるのはどうしてか????

この文章は以下の目次に沿って進めます。

1.日本の謝罪
2.良心的日本人の存在
3.韓国寄りのスタンス
4-1.保守派を叩く面白さ
4-2.親の世代を叩く面白さ
5.贖罪意識の解消
6.惰性への迎合
7.まとめ






 戦争が終結した1945年。その後、日本と韓国は没交渉になる。
日韓が国交を正常化するのは、その20年後の1965年である。
その間、韓国大統領が来日することはあったが、日韓間は冬の時代だった。





1.日本の謝罪

 そして1965年に日韓基本条約が締結し、日韓の国交は正常化される。
しかし日韓関係は関係改善するどころか、むしろ悪化の一途を辿ったというのが実情ではないか?


 一例を挙げよう


 日韓関係が正常化する前の1950年代に朝日新聞が韓国で聞き取りした記事がある。
その記事は国交正常化に関して韓国の各界の人物にインタビューしている。
 そこで韓国人が求めるのは当時の吉田首相の謝罪だった。


 しかしその方法はそれほど拘っていない。
ある人物は「日本の国会で野党の質問に答える形でも良い」ので、
そこで謝罪の言葉を述べて欲しいと言っている。

 韓国に直接ではなく、日本の国会で野党の質問に答える形でいいから、
謝罪の言葉を言って欲しいというのが当時の韓国の要望だった。



 その後、1965年に国交正常化をするが、
その直前に日本の外務大臣椎名悦三郎訪韓する。
そこで外務大臣が韓国政府に謝罪の言葉を2回述べる。

 その時の韓国メディア、韓国政府の反応は

 「日本の謝罪が実現した」
 というものだった。



 その後1984年、韓国の全斗煥大統領が来日した。
実は有史以来、朝鮮半島のトップが公式訪問するのは初めてのことだった。
 当然、韓国の日本に対する公式訪問も初めてだった。


 その時に行われたのは昭和天皇による謝罪だった。陛下は遺憾の意を表した。

 天皇陛下は象徴なので政治的発言はできない。
しかし直接支配した天皇陛下として謝罪の言葉が欲しいという韓国側の要望。
そして韓国の全斗煥大統領と親しかった中曽根首相の意向もあり、陛下の謝罪となった。



 その後1990年、昭和天皇崩御により、現陛下に代わっていたが、
当時の盧泰愚大統領は天皇陛下の謝罪の言葉を求めた。
 

これは1984年の「遺憾の意」というものより強い言葉が欲しいという韓国側の意向があったからだ。
先に書いたように天皇陛下は政治的発言ができない。
それ故に踏み込んだ発言には抵抗もあったが、調整の結果「痛惜の念」と言う言葉が使われた。


当時の盧泰愚大統領は

天皇陛下が謝罪した。総理大臣も謝罪した。
衆議院議長も謝罪した。これ以上どうしろと言うのだ?」

と評価していた。




しかし現在の日韓関係は改善しているのだろうか?



2012年 李明博大統領は天皇陛下訪韓に触れて
「“痛惜の念”などと言うくらいなら訪韓しなくていい。
独立運動家に土下座しろ」と暴言を吐いた。


これまで日本が誠意を示して謝罪するたびに、
韓国は誠意を踏みにじってきた。それが歴史的な事実である。


韓国は日本に対して謝罪を求めているのではなく、
日本人を侮辱するのが面白いからやっているのだ。面白くて楽しいからやっているのだ。


その面では日韓関係が悪化しているのは、韓国側に大いに責任がある

しかし韓国だけの責任なのだろうか?


実は日本側にも大いに責任がある。
今回はそのことについて書いていきたい。






2.良心的日本人の存在

日韓関係を悪化させている日本側の要因とは「良心的日本人」の存在である。


 「良心的日本人」とは日本人でありながら、韓国や中国側の意見を代弁する人たちである。
その中にはむしろ日本の不利益になることを積極的に行う人たちがいる。
見ていて「なぜそんなに日本ばかりを批判するのか?」と思ってしまうが、
彼らにとってはお構いなしなのだ。



彼らはどうして日本を批判することを繰り返すのか



その理由を彼らに聞けば、こう答える。

「日本が嫌いだからやっているのではない。
むしろ日本を愛するが故に苦言を呈するのだ」

「日韓関係が悪化しているのは日本が真摯に謝罪しないからだ。
日韓関係を改善するために心を鬼にして日本を批判して謝罪を引き出そうとしているのだ」



つまり日本のために日本の批判をしている

というのだ。



日本を愛するが上に、日韓関係を改善する上に、日本の謝罪が必要で、
そのために活動しているというのが彼ら「良心的日本人」の言い分だ。



しかし筆者は断言する。それは…と。







3.韓国寄りのスタンス

 彼ら良心的日本人は日韓関係を改善するために活動しているという。
しかし韓国の反日行動には批判をしない


 例えば韓国政府の慰安婦報告書では20万人に慰安婦と書いてあるが、
それに対して批判する良心的日本人はほとんどいない。
彼らのスタンスは韓国の代弁者になり、
日本を批判することのみ(もしくはほとんど)なのである。


多くのケースで日本にのみ謝罪を求め、韓国を擁護するそのスタイルは、
日韓関係を改善するという(当人の)主張を疑わせるのに十分である。



そうすると彼らはなぜ韓国よりのスタンス、韓国寄りの主張をするのであろうか?
彼らを韓国寄りに駆り立てているものは何なのか






彼らを日本批判に走らせている要因はつある

(1)日本を叩くことが面白い。
(2)過剰な贖罪意識を解消するため
(3)昔からの惰性で。


つまり「面白いから」「贖罪意識の解消のため」「惰性で」という
3つの理由があると考える。


ではまず面白いという部分を見てみよう。







4-1.保守派を叩く面白さ

 では面白いとは何か?
ここで物事を単純にするため、自民党社会党を比較して見てみよう。


 社会党は日本政治の一方の雄として、自民党に対抗する存在であり続けてきた。
1955年に社会党の右派と左派が合併し、社会党になってから、
ほとんどの期間、野党第一党であった。
保守系自由党民主党が合併したのは社会党の統一に煽られた面が強い。


 最大時は衆参で200を超える国会議員を確保し、
多くの労働組合を支持基盤にし、特に都市部においては強い支持を獲得していた。



 しかし村山内閣ができると、これまでの党是であった「自衛隊違憲論」を撤回し、
反対していた「消費税を容認」するなど迷走し、多くの支持者が去っていった。


 現在、後継の社民党衆議院参議院で計しかいない。
 2017年9月現在
 社会党には多くの議員や多くの支持者がいた。そして多くの大学教授や評論家、ジャーナリストなども支持していた。


彼らは政治的に敗北したのである。


 誰が何と言おうと完膚なきまでに、自民党に敗北したのである。
社会党としては悔しいし、残念だろうが、事実なのである。


 そういった政治的な不遇、不満は何かで解消したい。
それが「反日行動」に走らせている一因である。


 そして自分たちを負かした自民党(政権)を叩いてくれる存在(中国・韓国)は、
政治的不遇を解消するありがたい存在なのである。


 自民党=日本政府なので、日本政府を叩くこと、
そしてその日本政府を支持している日本人を叩くことで、自己の留飲を下げているのである。




 確かにリベラルはそうかもしれない。例えば福島瑞穂氏はそうだろう。
しかし政治的不遇とは無縁の「村山元首相」や「河野洋平氏」は
どうして反日行動を起こすのか?と疑問に思うかもしれない。


しかし両者も政治的に不遇だったのである。



確かに社会党出身者でありながら、総理大臣にまでなった村山氏は不遇とは思えないだろう。
しかしそうでもないのである。村山氏はそこで「自衛隊」と「消費税」を容認してしまうのである。


 それ以降社会党=現在の社民党は凋落の一途を辿った。社会党滅亡のA級戦犯と主張する論者もいるのである。




 河野氏に関しても、将来の首相候補と言われていた。
彼が国会議員になったのは30歳のころ、
河野一郎の息子として、知名度もあり、党内の支持者も多かった。
1974年には総裁候補の担ごうという動きまであった。
まだ3回生で議員歴7年の37歳に対してである。


 今でいうと小泉進次郎議員と同じような立場であった。


 しかし新自由クラブを作り、自民党を下野した時からおかしくなり、
最大派閥の田中派の怒りを買った。

約10年後には自民党に出戻りし、不遇の時代を過ごす。
最近の谷垣氏まで、河野洋平氏は唯一、自民党総裁でありながら、
総理大臣になれないという不遇を味わった。


 河野氏や村山氏の場合は「贖罪意識」や「惰性」というのもあるかもしれないが、
政治的不遇を晴らすためという側面も見逃せない。
そういうと「野中広務」「古賀誠」「加藤紘一」「鳩山由紀夫」「菅直人」といった顔触れは
みんな政治的不遇を囲っているのである。


 政治的不遇という言葉をもう少し噛み砕いていうと、
「日本人に相手にされていない」ということである。
だから反日行動をすると「韓国人」や「中国人」が相手にしてくれる。
だから彼らの望むような行動をとることで彼らの歓心を買おうとするのである




 よくリベラルの人は嫌韓行動を

「実生活の不満を嫌韓行動で憂さ晴らししている。」
といった主旨の批判をしている。


 確かのそういった人もいるだろう。

 しかしこれはむしろリベラルの人たち、良心的日本人の人たちにこそ当てはまるのだ。


 良心的日本人こそ、自分たちの政治的不遇(=嫌いな政権ができる等)を解消するためにやっているのである。


 そして自分たちの政治的主張が受け入れられない日本を叩くことで楽しんでいるのだ。



実は「面白い」というのはもう一つ意味がある。それは世代間闘争である。






4-2.親の世代を叩く面白さ


世代間闘争とは何か?

 簡単に言うと、「親の世代を叩くことの面白さ」である。


 我々にはいつの時代も世代間で意見の相違がある。
昔の洞窟にも「最近の若い者は!」という文字が彫ってあったし、
若者は「今の大人はダメだ」と思っている。
このように各世代で意見の相違があるのである。そしてこれは自然のことなのだ。


 親の世代は「最近の若い者は」と言い、若者は「大人は汚い」という。
いつの時代にも引き継がれてきた「古い闘争」である。
明治維新大正デモクラシーも226事件も60年安保も
1968年~70年の学生運動もある面で見れば世代間闘争である。
古い時代と新しい時代とのせめぎあいである。


そして必ずしも新しい世代が勝つわけではない。


明治維新大正デモクラシーは若い世代が勝ったかもしれないが、
226事件や60年安保、学生運動は若い世代が敗れたのである。


 そして若い世代にとって、一方的に大人の世代を叩くことができた世代がある。

 それが終戦である。


 終戦当時、それまで威張り腐っていた大人たちは敗北にひしがれた。
特に軍人たちや軍国主義を煽っていた輩は発言権を失った。
終戦当時の大人の世代は多かれ少なかれ、戦争の遂行に協力していた。


 それに対して当時の子供たちに責任はない。
彼らの中には軍国少年も多々いたと思うが、
それも子供なのだから責任を問われるものではない。
そしてなおのこと、空襲被害にはあっている。
つまり彼らは軍国主義の被害者という立場でもあったのである。



 軍国主義の被害にあい、そしてその当時の大人の世代を一方的にたたく権利を得た世代は、
大体1930年代以降の生まれの人たちである。
彼らは自分たちが被害者であり、なおかつ大人たちを一方的に断罪する権利を得たのだ。

例えば河野洋平(1937年)、加藤紘一(1939年)、愛川欽也(1934年)、
菅原文太(1933年)、大江健三郎(1935年)、雁屋哲(1941年) などである。


 もちろん村山富市(1924年)のような例外もいるが、
村山元首相はこの時代の大学生としては珍しく、戦場に行っていない。
徴兵されただけで終わっているのだ。そういう面で、「手を汚していない」人であり、
軍国主義に対して身綺麗であるといえるだろう。

 同様な例は渡辺恒雄(1926年生まれ)にも言える。
彼が徴兵されたのは終戦の1ヵ月前である。


 つまりこれらの人たちは戦後、大人の世代に対して精神的優位に立ったのである。
何か批判されても「お前らは戦争を起こした」と言えば、相手は黙ったのである。


 これは快感だっただろう!


 自分たちよりはるかに年配で、経験豊富の人を「たったの一言で黙らせる」ことができたのだ。


 非常に「面白かった」と思う



 戦後時の若い世代、もしくはその後の若い世代にとって、
大人を黙らせる言葉、「戦争を起こした」というキーワードは
何ものにも代えがたい価値を生み出したのである。


 そしてその成功体験を後押ししてくれるのが中国韓国なのである。


 かつての「被害国?」が現在でも声高に叫んでくれる。
「謝罪しろ」「賠償しろ」とその言葉を聞くたびに、
戦後のミラクルワード「戦争を起こしやがって」という言葉は魅力を増すのである。


「日本は歴史を反省しろ」

「ほら被害国があんなに批判しているぞ。もっと謝罪しろ」


こうやって「一歩的な勝利」をした瞬間を思い出してホルホルしているのである。


 しかし最近段々その神通力が落ちてきた。だから余計に被害国?に傾倒するのである。



 「良心的日本人」の行っていること、それは…


 世代間闘争に勝利したミラクルワードを色あせたくないのである。
そのためには被害国?がいつまでも日本を批判してくれないと困るのである。


 中国と韓国が日本を批判する時、

 良心的日本人は昔の勝利を思い出して噛み締めているのである。


 あの時は「大人を批判して面白かった」……と。






5.贖罪意識の解消

 贖罪とは「罪の償うこと」である。
それは善行を積むことや、金品を提供することで、
罪の許しを得ることである。


 つまり「負い目」を持っている状態、意識があり、
それを色々な行動において解消したいのである。
相手に対して「借りのある状態」「迷惑をかけた経験」等が
「負い目」という意識につながる。こういった状態には「人は耐えられない」のである。


 何とか解消したい。それが贖罪意識を生むのだ。



 この贖罪意識を生み出しているのが、日本が戦後行った「自虐教育」である。
つまり自国を必要以上に悪く言う教育である。


 本来なら、自国が行った「悪いこと」を批判的に教えることは当然であるが、
良いことをやったらそれも教えればよい。


 しかし戦後の日本教育は「悪いことしか」教えない教育なのである。


 「日本は戦前悪いことをした」というと問題ないが、
「日本は良いこともやった」というと反発される世の中なのである。

1995年、当時の総務庁長官 江藤隆美氏がオフレコで
「日本は良いこともやった」といったら、大臣を辞めさせられた。

 これなどは自虐教育の最たるものであり、
韓国や中国への迎合以外何ものでもない。


 なぜ日本は自虐教育を行ってきたのかというと、
それが国民の支持があったからだと筆者は思う。


 「GHQの洗脳が」とか「日教組の教育が」とか色々あるであろうが、
結局戦後の日本では国民がそういう傾向だったのである。


 つまり「戦後は二度と戦争を起こさない」ということが、
戦前と逆に集団ヒステリー状態になったのである。
戦前の「軍国主義」大合唱が、戦後は「非軍事」大合唱につながったのである。


 そういう中で戦後の日本国民の意識は「戦前の日本の否定」から
「戦前の植民地や占領地への同情」にシフトしていったのである。
そして過度に韓国や中国に迎合する心理になるのである。


つまり「戦前の否定」から「被害国?への同情」を生み、
「過剰な贖罪意識」を生む。その「贖罪意識を解消する」ため、「積極的に迎合」する。


 これが日本人の大多数に起きていたのだ。


 そして大多数の人が「過剰な贖罪意識」に感染することで、
韓国や中国が反対する行動をとる人(=例えば、靖国参拝を行う議員等)に、
過度に攻撃的に出るのである。





6.惰性への迎合

 先程の贖罪意識と被る部分もあるが、惰性と言うのも見逃せない。


 「惰性」と言うのは、元々物理学の用語だが、ここでは世間の風潮に迎合することをいう。
世間が右なら右、左なら左と言うようにこれまでの流れに沿って行動することだ。


 戦後の日本は戦前を否定する風潮が強かった。そして戦前の否定から韓国には迎合する傾向があった。


 つまり日本は悪かった


 と言えば、何でも通ったのである。


 戦後の日本では日本は韓国に良いこともやったと言えば、
世間に叩かれて大臣であってもクビになった。
つまり今風の言い方で言うと戦前の日本を肯定する言説は委縮していたのだ。


 こういった状況で生まれるのが惰性である。


 つまり日本を肯定する意見をいうことは躊躇い、
日韓関係のことを言われるととにかく日本が悪いと言っていれば良いのだ。
 

 これは特に番組のコメンテーターなどに多く見られた傾向である。
今から考えると非常におかしなことでも、こと歴史問題になると、
韓国に迎合する風潮が見られたのだ。


例えば25年ほど前には在日コリアンが強制連行された子孫だというのは、
普通にテレビで発言されていた。これも惰性の一形態であろう。






7.まとめ

 上記の3点を繰り返すと以下のようになる。

(1) 日本を叩くことが面白い。
・保守派を叩くのが面白い
・親の世代を叩くのが面白い
(2)過剰な贖罪意識を解消するため
(3)昔からの惰性で。

 と言うことになる。



 こういった動機によって、日本人でありながら、
積極的に韓国人に迎合する良心的日本人が跳梁跋扈することになるのだ。



 ここで注目してもらいたいのは、上記3つの理由はすべて個人的なことなのである。
面白いも「贖罪意識の解消」も個人の満足のために活動しているのだ。


 冒頭で、良心的日本人の言い訳を記載しておいた。
彼らは日本のために、日韓友好のためにあえて苦言を呈していると主張する。


 しかしここまで見ればわかるように、

 それは大嘘なのだ。



 彼ら良心的日本人は個人の欲求を満たすためにやっているのだ。
それが韓国の尻馬に乗って日本批判する楽しさ」なのか
「自分の苦しい胸の内の贖罪意識を解消するためか」何かは知らないが、
個人的な欲求のためにやっているのだ。


 特に最近は日本のリベラルは民主党政権が全然ダメで政権交代の機運すら生まれない。
そういう状況は望ましくないのだ。


 だから声高に日本を批判してくれる韓国に迎合して、その尻馬に乗って日本叩きをすることで憂さを晴らしているのだ。



 良心的日本人にとって、韓国寄りのスタンスをとるのは必然である。

 その目的は自分の憂さを晴らすためである

日本統治時代を韓国人はどう感じていたのか?同時の記録から!

・日本の韓国統治は過酷だったのか?
・当時の記事から類推する
・韓国人は、日本を恨んでいなかった

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 戦後の我々日本人からすると、韓国人は日本を恨んでいたと思うかもしれない。


 そして韓国人が恨んでいるのは、日本が過酷な統治をしたからだと思うかもしれない。


 しかしそれはなのだ!


 日本統治時代は韓国人にも理解されていた。故に韓国では反乱が起きていなかったのだ。


 韓国では3.1独立運動を大げさに取り上げている。
それはなぜかと言うとそれ以外になかったからだ。


 しかし3.1独立運動は1919年に起きた。
その後26年間(日本から独立するまで)は何をやっていたのか?
当時の韓国人たちは日本統治をそれなりに受け入れていたのだ。





朝日新聞の日韓対談

 韓国人、特に韓国の一般民衆が日本人を恨んでいなかった根拠を提示しよう。


朝日新聞に「日韓会談を阻むもの」として韓国人の日本特派員と
日本人の韓国特派員の対談が載った。
その記事からリードの部分を引用する。

いくたびか決裂を見た日韓会談がふたたび開かれる機運にある。しかしこの会談によって直ちに両国間の懸案がことごとく円満に解決されるだろうと期待することは、これまでのいきさつからみても無理だろう。それでは一体日韓関係の円滑化を阻害する原因はどんなところにあるのか。 ~略~

そして
「互いにズレた国民感情」 「投合う“不自然な言葉”」 
「“親日派”を恐れる」 「韓国 表と裏と別の態度」

小見出しが続く。



この対談は最近の記事としても通用しそうである。しかしこの記事が載ったのは
1953年12月4日の朝日新聞である。


今から60年以上前から同じようなことをやっていたのである。





意外に温かい韓国民衆

 この対談は朝日新聞の津島朝鮮特派員とソウル新聞の金乙漢東京特派員との間で行われた。
年齢については不明であるが、金氏は日本の大学を卒業して大正十四年に朝鮮日報に入社と
書いているので、対談当時は50歳を越えているだろう。
また津島氏は年齢が分かる手がかりはないが、写真を見る限り30歳を越えていそうである。



つまり両者とも終戦の時には成人になっていたのである。
そして戦前の朝鮮半島の事をそれなりに理解している人物だろう。


その両者は何と言っているのか?



津島  たとえば街の店に入る。日本人ということがわかると主人が「まあ奥に入って座りなさい」といった調子で温かい空気を感じるが、われわれが官吏を訪問するとガラリと空気が変る。実に冷たい。日本に対しての声明でも非常にきつい。


 ここでは1953年当時に韓国へ行っていた特派員が「韓国民衆の温かさ」に触れている。
これは終戦年後である。


 当然、津島特派員も店の主人の韓国人も日本統治時代の事を知っているはずだ。
それなのに日本に対して非常に親切なのである。


 それはなぜか?




なぜ反乱が起きなかったか?

 私たちは気付かなければならない。
日本の統治がそんなに悲惨な搾取に満ち溢れたものであれば、
どうして大戦中に朝鮮半島で反乱が起きなかったのであろうか?


 確かに朝鮮半島満州の間の「間島地方」等では反乱部隊がいたが、
それはほとんど山賊馬賊の類と変わらない。
そして大韓民国臨時政府などは内紛ばかりでまともな活動ができていない。


 日本の支配が過酷であれば、朝鮮半島内に一番多くの朝鮮人がいるのだから、
反乱を起こさないわけはないだろう。
 事実、李承晩政権は韓国人が反乱を起こして打倒されている。
 朴正煕政権でも何度も民主化闘争を行っている。
 そして遂に1987年に韓国民衆の力で民主化を成し遂げたのではないか?



 朝鮮人が搾取されていれば、大人しくしているわけがない。



 つまり日本の統治は非常に良かったからである。
 だから日本人の統治を知っている韓国民衆は戦後も日本人を歓迎していた。


 しかし反日が売りの李承晩はそれでは困るわけである。
独立運動」しか能がないので、“独立運動は正しい”としなければならない。

それが独立をしたらもっと悪くなりましたでは、自分の正統性を主張できない。
だから日本統治時代は“暗黒時代”でなければならないのである。




作られた反日

 もう少し、記事から引用してみよう。

津島  ~略~ 私が感じるのは韓国の新聞を見ると日本が全然敵国扱いで、日本に関する記事は表現にしても実に最大級の表現でバトウしているし、政府声明も日本に対する友好の心は見当たらない。これは不幸なことだ。

金   そういうことは自然なことではないから日にちをかせげば落着くところへ落着くと思う。

津島記者が政府声明を「敵国扱い」と批判していることに対して、金記者は否定していない。
しかも金記者は「自然ではない」ので「時間がたてば落着く」と主張している。


この当時の韓国人からは反日声明は不自然なものなのだ。


津島  概して個人個人に当ると必ずしもそうではないが、改まった話になるとやはり反日という色彩を非常にはっきりさせてくる。しかしそれがいかにも苦しそうなのです。何か親日に見られることをこわがっているといった感じがするのです。

金   それには原因がある。というのは、日本の敗戦と同時に、韓国の政治の主導権を握ったのは、大多数の国内の人ではなくアメリカなり中国から入った政治亡命者たちだ。最近フランスから朝鮮に帰って来た人の話でも、商売がたきだとか、恨みがあると、あれはドイツと協力したなどと密告して監獄に入れてしまったりするといわれるが、それと全く同じく、あいつはちゃきちゃきの親日派だといわれることがこわいのです。


 つまり敗戦国日本と仲がいいと、批判されるだけでなく、監獄に入れられる。それなら「親日派」とは死んでも言えない。それどころか身を守るために、積極的に反日に勤しむ



 元々、朝鮮民族中華思想による日本人に対する蔑視思想を持っていた。だから「反日」に反応しやすい素地はあった。



 しかし現在の反日は戦後、李承晩が自分の政権の正統性をつくるためのものである。


 韓国大統領が自身の権威を高めるために反日を煽った。それを韓国民衆が面白さのために迎合した。それが事実なのである。


 戦後のマスコミの嘘に騙されてはならない。当時の意見こそが重要なのである。